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  <title type="text">こえひくく　かたれ</title>
  <subtitle type="html">since Aug.2009.......「声低く語れ（parla basso）」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。</subtitle>
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  <updated>2009-08-07T01:57:26+09:00</updated>
  <author><name>toshi</name></author>
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    <published>2022-03-21T19:11:56+09:00</published> 
    <updated>2022-03-21T19:11:56+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>浪人しそうな人へ</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<div>　「浪人しても成績は上がらない」とか「浪人しても第一志望に受かる人はほとんどいない」といった説に対する反論を読んだ。</div>
<div>私も言っておきたいなと思うことがあります。長文になります。</div>
<div>できれば浪人が決まった人、そうなりそうな人に読んでほしい。とくに国公立志望の人です。医学部だと国公立が前提だという生徒が少なくないですから。</div>
<div></div>
<div>　私は個別指導で生徒を見てきました。2年間指導して浪人して3年でやっと第一志望に合格することも稀ではなかった。何でもうまくいったなんていいません。言ったようにすればいいんだなんて思いません。でもそのなかで経験的に感じてきたことです。</div>
<div></div>
<div>　浪人しても第一志望に合格しないことなんてザラにあります。することもある。結論から言います。</div>
<div>1.　今、たったいま全力で勉強してください。</div>
<div>2.　1回目の記述模試でA判定を何が何でももぎ取ってください。</div>
<div>3.　夏には志望校の問題を解いて1／2回は合格平均点を叩き出してください。模試の判定ではありません。実際の問題で、です。必ずできるだけしっかりと自己採点して評価を下してください。</div>
<div>4.　2.3.を踏まえて受験が10ヶ月先と思わないでください。</div>
<div>5.　なぜこんなに前倒しするのか。浪人生にとって国公立の第一志望の難易度が1段階か2段階上がってしまうからです。</div>
<div></div>
<div></div>
<div>　高3生の学力はたいてい2次試験あたりでピークになります。勉強も最も集中力があり、必死で、時間も長くなります。それに身体も慣れています。そのままの勢いで浪人に突っ込んでください。合格発表なんて待たないでください。</div>
<div>　具体的事例を出します。まぁ昔のことだし合格したから許してくれるだろうと思って。</div>
<div>　K大理学部に浪人して合格した生徒がいます。</div>
<div>　現役のとき、私の手応えは2－8くらいでした。ちょっと厳しいな、と。で突っ込みました。不合格。3月、自分で勉強してみたいということで、強く反対しましたが教室を休みました。4月に戻ってきました。学力はボロボロになっていました。一度勉強のエンジンが冷え切ってしまうと、それがフル回転し始めるのに時間がかかります。たぶんエンジン全開になったのがGWくらい。それまでは学力が低下し続けます。その生徒の学力が現役のピーク時に戻ったと感じたのはいつだと思いますか？10月下旬です。やっと戻ってきた、と。私は数学と現代文を見ていましたが、生物・化学を見ていた講師ともこの見解は一致しています。それから3,4ヶ月です。つまり現役時の2－8に3ヶ月分か4ヶ月分しか上乗せできなかった。</div>
<div>　だから感触でいえば五分五分にしか持ち込めなかった。しかし強引に受験し、何とか合格しました。</div>
<div></div>
<div>　この生徒は自分がやりたいことがその大学に見つけていたので強引に突っ込みました。そうでなければ受けられなかった。</div>
<div>　国公立志望の場合、浪人生は五分五分では突っ込めないのです。そんなリスクを侵すことはできない。だから普通だったらリスクを回避し、志望校を下げる。</div>
<div>　上記の5.ですが、現役生は五分五分だったら当然のように突っ込むことが多い。けれども浪人生にはそれはできない。7－3でも難しいかもしれない。医学部だと私大が無理だというケースが少なくない。だからこうなってしまいます。</div>
<div>　これは少し極端な事例かもしれないけれど、今、この時期に勉強を緩めると学力が低下します。かなり急速に、です。共通テスト後、数Ⅲの積分計算ができなくなっていた人、多いでしょう？それの極端バージョンになります。</div>
<div></div>
<div>　だから今、なんです。今この時点で受験直前のような集中力と執念で勉強を絶やさないでほしい。</div>
<div></div>
<div></div>
<div>　2.3.にかかわってですが、個々の浪人生にとっては別ですが、全体として言えば現役生と浪人生では伸び率が違います。それはそうです。だから例えば相対的な評価である偏差値が下がっても、絶対的な学力が下がっているわけではなかったりします。だから現役生の方が伸び率が大きいと浪人生の偏差値は後半に下がることが多いです。</div>
<div>　これは私の指導が悪いのかもしれないけれども、浪人生で第1回の記述模試の偏差値が一番高いということがそれほど珍しくない。現役生との学力差が一番大きいので。だから何とてもここでA判定を叩き出してほしい。せめてB判定。それを考えても3月は必死にやらないといけないです。</div>
<div></div>
<div>　このことにはもう一つの意味があります。</div>
<div>　浪人生にはずっとD判、E判を見続けてきた人が少なくない。そして受験もうまく行かなかった。あちらこちらからいろいろ言われることも少なくない。何より自分が自分を信じられない。自信もない、誇りもない、心が折れる寸前だったり、何度も実際に折れたりする。励ましてくれる人もいる。でもそれも虚しく聴こえる。ありがたいけど逆にムカついたりする。そんな受験生は少なくないと思う。</div>
<div>　可能性を信じることは大切だし頑張ることも重要だ。でもそれを支えられない。</div>
<div>　受験生は一喜一憂するものです。その自分を励ますために、この１回目の記述模試、本気で頑張ってください。必死にA判定を出してください。何よりも失っていた自信とかプライドとか、相当に回復します。実際に結果を叩き出さないと得られないものが確かにある。E判、D判しか見たことがなかった人、初めてのA判、B判みて、まぁ現役生がまだまだだからな、とは思うかもしれない。思うかもしれないけど、それでも絶対に変わるものがあるから。それは信じて良いことだと思います。</div>
<div></div>
<div>　それから偏差値は下がるかもしれない。</div>
<div>　でも第一志望の問題と戦ってそれをねじ伏せられるなら問題はない。周りの動きは実はあんまり関係ない。</div>
<div>　9－1、少なくとも8－2に持ち込むためには夏の段階で五分五分にはする。</div>
<div>　このプロセスで考えてほしいことがあります。</div>
<div>　まず自分の強み、武器が相手に通用するレベルなのかどうか。これが通用しないならとりあえず必ず敗北します。だからその段階は苦手を詰めるより武器を磨いてください。武器がなければ自分を支える土台もできません。武器がある程度相手と噛み合い、五分五分に持ち込んだ。このときのラインは合格者平均で考えてください。浪人生はギリギリの合格なんか目指しちゃダメです。</div>
<div>　でも五分五分に人生をかけられない。だから夏以降は、自分の苦手な分野、単元、問題形式が重なっても合格できるところに持ち込む戦いです。たいてい苦手なところは嫌いなところです。嫌いなところをやりきるのはたいてい凹みます。だから後半は苦しい戦いです。でもこれをやらないとギャンブルになります。</div>
<div></div>
<div>　苦手な問題、領域をやり続けると「できる」という感触を忘れてしまうことがあります。まぁ大抵そうなります。そうすると全体に調子を崩します。リズムが悪くなる。数学などでも自信を失うと本来解けるはずの問題ができなくなったりします。こうかな？ダメそうだな、そんな判断がダメな側に振れてくる感じです。10月あたりはそもそも受験生が調子を崩しやすいですし。そうしたときの一つの方法は得意な分野、できる分野の問題を少し集中してやってください。そしてリズムを取り戻してください。できていたときはちょっと困難に直面しても踏みとどまって打開できたりしたでしょ？その感覚を取り戻してください。</div>
<div></div>
<div>　それから本当はこれがいちばん大切なことかもしれないですが、自分の学力の手応えにたった評価を自分で下せるようになってください。素点や偏差値は重要だけど、それは一つのものさしに過ぎない。それで測れるものと測れないものがある。同じ偏差値の生徒が、同じ素点の生徒が、同じ学力、同じ特徴ではない。自分の顎力の特徴を自分で掴んでください。周りに何と言われようと最終的には自分で信じられるレベルで。例えば運動で、同じコーチについて同じ練習をしても、自分の課題を自覚している人としていない人とでは多分結果は変わります。こういうことができる、できない、それを詰めてください。そのためには各々教科、学力を構成している要素をよく考えてください。自分は数学的な思考力が足りないのに、センスや思考力があるけど計算力が足りない人が「これがいいよ」といってもそれは間違いです。そういう自分自身の学力の特徴をよく見極めてください。そしてゴールまでの道、その手応えのようなものを掴み出せたらたいてい何とかなります。</div>]]> 
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            <name>toshi</name>
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    <published>2019-06-26T18:43:43+09:00</published> 
    <updated>2019-06-26T18:43:43+09:00</updated> 
    <category term="教育" label="教育" />
    <title>英語　入試　民間テスト導入　本当にやめてほしい</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<div>英語の共通テストに民間試験を導入すること（軸はGTECになるだろうが）をめぐって国会請願が行われたり、それをめぐってSNS上でもさまざまな議論が行われている。</div>
<div></div>
<div>　大原則として民間試験導入は反対だ。絶対反対だと言っていい。</div>
<div>　みていてGTEC＝ベネッセの策謀にしか思えない。それを下村某がねじ込んだ。背後に何があるんだろうなんて言わない。背後にあるものはほとんど誰もが思っていることだろう。共通テストの実施で主導権を握ったらそれこそ河合塾だろうとどこだろうと太刀打ち出来ない。河合塾はケンブリッジ英検と提携しているようだけれども、ベネッセは学校現場に強く営業をかけ、すでに深く食い込んでいる。河合塾がこの点で巻き返せるとは到底思えない。</div>
<div>　共通テストの主導権をにぎったら、模試も、教材も、そしてカリキュラムもその主導権を握った会社が牛耳ることになる。学校の先生たちには到底逆らうことはできない。逆らうこと＝受験指導を放棄すること、とみなされるに決まっている。ちゃんとした英語力をつけましょう、というようなことはキレイ事のお題目としてしか扱われないし、迷惑です、と言われるようになるだろう。</div>
<div></div>
<div>　教育を巡ってとてつもない市場占有率になることは目に見えている。</div>
<div></div>
<div>　CEFRの問題。CEFRのどこに該当するのかは自己申告のようで、文科省は確認していない。ベネッセについては一般財団法人進学基準研究機構（CEES）と共同研究のような形でGTECとCERFとの関係についてのレポートを出しているが、進学基準研究機構（CEES）は事務局をベネッセの社屋内においていて、まぁ、そういうことですね、という感じだ。</div>
<div>　いったいどうやったらこれで「公平な入試になるというんでしょうか？」という感じだ。</div>
<div></div>
<div>　採点基準の問題、採点官の問題&hellip;</div>
<div>　さらには、そもそも4技能という考え方が正しいのか、正しいとして、それを共通テストとして行いうるのか、という問題もある。阿部公彦氏に言わせると、「そもそも喋る前に聞けないと、そこで何が話されているのかわからないとしゃべれないでしょ、それには語彙とかいろいろ必要になるでしょ」と言っているが、まったくだと思う。例えば同時通訳者は、事前にその分野の本をかなり読み込み、言葉を覚えるらしい。じゃないとまともに通訳できない。通訳できない以前に、何を言っているのか分からないかもしれない。日本の高校生が経済学者の学会に出ても、そこでは日本語で話をされているにしても、内容がわからない、何を言っているのか分からない状態になるのと同じだ。</div>
<div></div>
<div></div>
<div>　学校教育で英語を十分に使えるようにしたいのであれば、まずは授業時間を倍くらいにしないとダメだと思う。入試をいじったからと言ってどうこうなるようなレベルの問題ではない。英語と日本語（韓国語なども）語族が違い、根本的に言語の構造が違う。だから日本語を母語にする人が英語を十分に使えるようにしようと思ったら、ほとんど「脳をもう一つつくる」くらいのことをしないといけない。それは中国の人が英語を学ぶというのはかなり違う。</div>
<div>　以前に中国人の家族の人に聞いたことがあるが、子どもは中国語と日本語と療法に触れているが、そうすると語順が混乱するらしい。動詞と目的語の順番が違うからだ。けれども、英語を習っていて、英語だったら大丈夫だと言っていた。そちらのほうがずっと馴染みやすい。まぁそうだろうな、と思う。</div>
<div>　「もう一つ、脳をつくる」。</div>
<div>　単純に時間をかければできないことはない。できないことはない、というよりも、子どもが2,3年アメリカに出ても行って、それなりの指導を受けていればたいていしゃべることができるようにはなる。</div>
<div>　だから言語の習得というものは、ある意味では「誰にでもできる」けれども、時間と労力がかかる、と思う。</div>
<div></div>
<div>　だから日本の学校教育が良いとは思わないけど、入試をいじったら変わるなんて思ったら大間違いだ。</div>]]> 
    </content>
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            <name>toshi</name>
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    <published>2018-05-17T06:21:35+09:00</published> 
    <updated>2018-05-17T06:21:35+09:00</updated> 
    <category term="diurnal" label="diurnal" />
    <title>可塑性　高校生の</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[幼児教育や児童教育の方法論についてはさまざまな議論が立てられている。<br />
　中学、高校の学習についてもあるけれども&hellip;<br />
<br />
　よく「無限の可能性」なんていうけれども、現場でのたうち回るものとしてはそう簡単には口にできない。いや、極めて有限な可能性しか無いのではないかと思うことだってある。<br />
<br />
　ただ、ときどき劇的な変化をする生徒がいる。<br />
　そうした劇的な変化の可能性は誰にでもあるのだろうか。いったいどういうメカニズムで起こるのか、今ひとつわからない。<br />
<br />
　第二言語の獲得についての研究は少し参考になる気がするけれども&hellip;。<br />
　研究書が非常に少ない気がする。]]> 
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            <name>toshi</name>
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    <published>2017-02-13T05:19:11+09:00</published> 
    <updated>2017-02-13T05:19:11+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>メモ</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[「外科医はだれしも自分の中に小さな共同墓地をもっており、ときおりそこを訪れ、祈りを捧げる――そこは苦渋と悔恨の場所であり、外科医はそこで自分が犯してきた失敗の数々の言い訳をさがさなければならない」
<div style="text-align: right;">（『外科の哲学』1951年　ルネ・ルリッシュ）</div>
<br />
「苦しむ者のなかに<br />
私の助言を求める者のなかに<br />
人間を見ることができますように<br />
富者か貧者かでもなく<br />
友人か敵かでもなく<br />
善か悪かでもなく<br />
ただ人間だけを見ることができますように」
<div style="text-align: right;">（モーゼス・マイモニデスの祈り）</div>
<br />
ひとの命の流れは一夜の夢のごとく<br />
朝に生え出ずる青草のごとし<br />
朝に花開きて栄え<br />
夕べには、刈られて枯るるなり&hellip;<br />
われらがすべての年のつくるは一息のごとし<br />
われらが年をふる日は七十歳にすぎず<br />
あるいは健やかにして八十歳にいたらん<br />
されどその誇りと栄光とはただ勤労と偽りとのみ<br />
そはたちまちにして断たれ、われらもまた飛び去れり&hellip;<br />
願わくはわれらにおのが日を数うることを教えて<br />
知恵の心を得さしめたまえ
<div style="text-align: right;">（詩篇九十篇）</div>
<br />
<br />
]]> 
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    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://parlabasso.dou-jin.com/books/%E8%A6%9A%E6%9B%B8%E3%80%80%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E9%83%A8%E5%8F%97%E9%A8%93%E7%94%9F%E3%81%AB%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%BB%E3%81%97%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE" />
    <published>2017-02-09T16:47:05+09:00</published> 
    <updated>2017-02-09T16:47:05+09:00</updated> 
    <category term="books" label="books" />
    <title>覚書　医学部受験生に読んでほしいもの</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[【医師・医学者・医療従事者とその現場から】<br />
<br />
■ジェローム・グループマン『医者は現場でどう考えるか』（石風社）<br />
■ジェローム・グループマン『毎日が贈りもの』（サンマーク出版）<br />
■ダニエル・オーフリ『医師の感情～「平静の心」が揺れるとき』（医学書房）<br />
■アーサー・クラインマン『病の語り～慢性の病をめぐる臨床人類学』（誠信書房）<br />
■アトゥール・ガワンデ『医者は最善を尽くしているか～医療現場の常識を変えた11のエピソード』（みすず書房）<br />
■ヘンリー・マーシュ『脳外科医マーシュの告白』（NHK出版）<br />
<br />
■西村ユミ『語りかける身体』（ゆみる出版）<br />
<br />
■松永正訓『運命の子　トリソミー』（小学館）<br />
■松永正訓『小児固形がんと闘う　命のカレンダー』（講談社）<br />
■吉岡秀人『死にゆく子どもを救え　途上国医療現場の日記』（冨山房インターナショナル）<br />
<br />
<br />
【医療過誤、医療過誤の被害から】<br />
■ソレル・キング『ジョージィの物語～小さな女の子の死が医療にもたらした大きな変化』（英治出版）<br />
■勝村久司『僕の「星の王子さま」へ』（幻冬舎文庫）<br />
<br />
<br />
【医者はどのような存在になりうるのか。どのような社会的関わりがあるのか　肯定的にも、否定的にも】<br />
■菅谷昭『チェルノブイリ診療記』（新潮文庫）<br />
■NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命』（新潮文庫）<br />
■津田敏秀『医学者は公害事件で何をしてきたのか』（岩波書店）<br />
■アレキサンダー・ミッチャーリッヒ／フレート・ミールケ『人間性なき医学～ナチスと人体実験』（ビイング・ネット・プレス）<br />
■原田正純『宝子たち～胎児性水俣病に学んだ50年』（弦書房）<br />
■原田正純『水俣病』（岩波新書）<br />
■石牟礼道子・水俣三部作<br />
<br />
<br />
【地震・大災害、原爆と医療・医者の役割】<br />
■中井久夫<br />
■安克昌<br />
■肥田舜太郎<br />
<br />
<br />
【医療をめぐる考察のために】<br />
■鷲田清一『「聴く」ことの力～臨床哲学試論』（筑摩書房）<br />
■M・フーコー『臨床医学の誕生』（みすず書房）<br />
■中井久夫『西欧精神医学背景史』（みすず書房）<br />
■中井久夫『治療文化論　精神医学的再構築の試み』（岩波現代文庫）<br />
■津田敏秀『医学的根拠とは何か』（岩波新書）<br />
■津田敏秀『医学と仮説』（岩波科学ライブラリー）<br />
■梶田昭『医学の歴史』（講談社学術文庫）<br />
■山本義隆『16世紀文化革命』（2巻本）（みすず書房）<br />
■米国医療の質委員会／医学研究所『人はだれでも間違える　より安全な医療システムを目指して』<br />
■米国医療の質委員会／医学研究所『医療の質　谷間を越えて21世紀システムへ』]]> 
    </content>
    <author>
            <name>toshi</name>
        </author>
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    <link rel="alternate" type="text/html" href="https://parlabasso.dou-jin.com/books/%E5%8C%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A7%BF%E3%81%8B%E3%82%89" />
    <published>2017-01-04T04:06:15+09:00</published> 
    <updated>2017-01-04T04:06:15+09:00</updated> 
    <category term="books" label="books" />
    <title>医者の姿から</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[トランプの勝利、堤未果のアメリカ関係のレポートをほぼすべて読む。医療現場の崩壊的な状況は凄まじい。<br />
　現場の医師はどうしているのか？<br />
　医学部志望の生徒が毎年少なくないこともあって、アトゥール・ガワンデ『医師は最善を尽くしているか』、ジェローム・グループマン『医者は現場でどう考えるか』を読む。いまはダニエル・オーフリ『医師の感情』を読んでいる。<br />
<br />
　個別指導の現場にいるものとしてそこらの学習論や受験指南書などよりもはるかに学ぶものがある。ないようはおいおい何らかの形で出していく。<br />
<br />
　ただアメリカの医師たちの驚くほどの率直さ、何の衒いもなく、茶化すこともなく、卑下することも誇示することもなく自分の揺れ動く思考や感情を切り開いていく。そして自分の誤診、その患者の死を淡々と語り、しかも経験をききに行った相手の医者にも「一番最近の誤診はなんですか？」とまっすぐにきく。そして相手は一瞬ためらい、そして答える。「一番最近の誤診」。いままでいくつもあったが、その中で一番最近のものは、ときいている。こんなことをきき、相手は答える。そして文章に公開してしまう。その姿に感動すらする。<br />
<br />
　それを支えているのは患者への眼差しだろう。<br />
<br />
　振り返って考えることが多々ある。恥じ入ることもある。<br />
<br />
　人間をみて、人間と人間の格闘が行われている現場として医療の場がある。そこで医師は闘い続けている。戦場は違うけれども、まだまだやらなければいけないこと、やれるかもしれないことがあるような気がする。]]> 
    </content>
    <author>
            <name>toshi</name>
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    <published>2015-02-15T06:38:53+09:00</published> 
    <updated>2015-02-15T06:38:53+09:00</updated> 
    <category term="未選択" label="未選択" />
    <title>メモ：</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[数学にしても英語にしても、あるいは現代文やその他にしても、その教科の「学力」を構成する力を明確にすること。<br />
<br />
　たとえば数学は、<br />
　数学的知識、計算力、数式の処理能力（同値関係についての認識や論理力を含む）、論理力、分析力、発想力、試行錯誤する力、具体的なものから抽象的なものをつかみ出す力、逆に抽象的・一般的なものを具体的に捉える力、図形・グラフなどの視覚的な対象のイメージ力・把握力&hellip;<br />
　ざっと考えてもいろいろと出てくる。<br />
<br />
　これはたとえば漸化式ができないから数列の極限ができないとか、三角関数の処理能力が不足して数Ⅲの微積分ができない、というような意味での数学的体系における内容的な構成要素とは違う。論理力がないから数学１Aの集合と論理のところを勉強する、ということではない。あらゆるところで学ぶことであり、また学ばない人は、あらゆるところで学ばない。<br />
<br />
　単元別ではなく、こうした、なんと言ったらいいのだろう？「能力別」というべきか？　そういう切り口で自分の力を分析し、対象化し、それを踏まえて学習するというあり方を作りあげることができれば、かなり大きな飛躍が可能になると思う。<br />
<br />

<div style="text-align: center;">**********</div>
<br />
　現代文を読む力にしても、かなり多くの要素があるんだけどな。<br />
　けれども現代文を「問題をとくため」に読んでほしくない。読み捨てにすべきではない。あれだけの文章を読み続けているのに、何もそこから汲み出さないのであれば、本当に現代文という教科が悲しむ。]]> 
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            <name>toshi</name>
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    <published>2015-02-11T02:05:24+09:00</published> 
    <updated>2015-02-11T02:05:24+09:00</updated> 
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    <title>メモ：認識論的障害　認識論的切断　学力</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[G･バシュラールの科学哲学における「認識論的障害」とその「認識論的切断」は、通常の学習の中でも課題になる。<br />
<br />
　学力は、結局のところ、その人の内部にしか存在しないから、その状態を把握するのはそれほど簡単なことではない。テストや様々な角度から測定をしようとしても、測りきれるものではない。ましてやそれが将来においてどう変化するなどということは誰にもわからない。わかるかもしれないが、そうしたことを研究したものをまだみたことがない。<br />
<br />
　内部にしか存在しない学力を意識化・対象化しようとする生徒とそうではない生徒がいる。講師は把握しようとするけれども、それも生徒本人が自分で把握しようとしていなければ、それほど役に立たない。そもそも把握することが困難になるし、ある程度、その論理、傾向、メカニズムなどをつかみ出して指導方針・学習方針をたてても、その前提になる認識が生徒本人と一致していなければ、つまり問題意識を共有していなければ、その「正しい方針」も外在的なものにしかならず、たいした意味を持たない。<br />
<br />
　本人にやる気があって、なおかつ困難に直面することもある。<br />
　それが例えば数学でいえば◯◯が弱いとか、英語の文法力が不足しているとかそういう言葉で捉えることができるようなことがらであれば、それほど問題ではない。その課題に対する対処はあるし、解決は必要な作業量も含めてある程度推測がつく。<br />
<br />
　問題は、学習や思考のメカニズムや傾向というようなものをたださないといけない場合だ。この点にまで踏み込まないといけない場合は、◯◯をいつまでに何回くらいやる、とか、まずは△△をやってそれからこういう問題を解いて&hellip;というような方針形成ができない。<br />
　あらゆる局面で、あらゆる単元で、その「メカニズム」や「傾向」とのたたかいになる。端的にいえば、「壊れている」というべき状態の場合がある。<br />
　あることをしらないとして、それは習ってもいるし、テキストにも書いてある。<br />
　そしてそれを勉強もしている。<br />
　ではなぜ「知らない」という状態が生みだされるのか。<br />
<br />
　このことが解決されないかぎり、量的拡大がもたらすものはただの疲労だけになってしまう。<br />
<br />
　この「知らない」は、空白ではない。空白なのであれば、単純に勉強すればいいだけのことがけれども、空白ではない「知らない」状態は単純に勉強しても解決しない。<br />
<br />
　バシュラールは、科学の飛躍的進歩の局面において、空白としての中世的な「無知」にたいして、「正しい科学的知識」を注入したのではなかったし、それはできないとしている。その「無知」は空白ではない。実際、ガリレオは逍遙学派（アリストテレス派）との熾烈なたたかいを繰り広げざるを得なかった。それは現在から見れば巨大な「予断・偏見・誤解・誤謬」の織りなす構築物であって、ローマ・カソリックとアリストテレスの権威を背景に強固に構築されていた。それをバシュラールは「認識論的障害」という。だから「近代科学的知見」は空白に注入されたものではなく、まずは、その認識論的障害を破砕することが必要になった。つまり「認識論的切断」が必要になった。誤った認識論的な仕組み、蓄積物を破壊しないかぎり新規の認識を獲得することができない。<br />
<br />
　科学史と科学哲学にたったバシュラールの論は、ほとんど日々の学習の論でもありうる。]]> 
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            <name>toshi</name>
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    <published>2013-11-12T02:35:24+09:00</published> 
    <updated>2013-11-12T02:35:24+09:00</updated> 
    <category term="読むこと" label="読むこと" />
    <title>森有正の日記から</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<blockquote>　プルーストの「見出されし時」を続けて読む。物を読むということは透明を担うものでなければならない。透明になってくるまで、緩っくりと、倦むことなく、何度でもやりなおさなければならない&hellip;&hellip;。感性と知識と表現との堅固な網が僕の内に形成される。その網の固い結び目（ゴルディアス王の結び目）は僕の内奥に在るのだ。《花開くような》自己形成。そこでは行動が記憶に優先する。成長に伴う苦痛が僕をつらぬくが、僕はそれを歓んで耐える。（「全集」14巻　p215）</blockquote>
<br />
　こうした奥行きに到達することがいつかは出来るのだろうか。<br />
　森有正の日記をときどき読むにつけ、そうした思いにかられる。いつものことだが、彼の文章を読むのは自分を打ちのめそうとしている時なのではないかと思う。何かを学び取るとか、知るとか、あるいは「感動する」とか、そうしたことを求めて読むということからはるかに遠いところに私にとっての森有正の言葉は存在している。その深みに触れたいと思うということでもない。彼が考えていたということを知りたいということとも異なる。ただそのページを開いても、理解するということを拒絶するような硬質なものに遭遇することになる。<br />
<br />
　一時期、アンゲロプロスの映画を立て続けに見ていたことがあった。その感覚に近いかもしれない。簡単に、あるいは永遠に理解するということが出来ないかもしれないと思わせるものがそこに在る。そう思った時、モノに触れるということはこういうことなのか、と感じたことがある。例えば山に登っている時、その風景に接して言葉を失ってしばらくその場に立ちつくす。その時、何かを解釈したり、その意味を考えたりするわけではない。その風景はそんなことを求めてはいない。あれこれと言葉をならべはじめたとき、その風景は私から遠ざかる。そうやって遠ざかりながら、言葉を通してしかみることができない風景もある。けれども遠ざかることで見えなくなることも当然、ある。<br />
　アンゲロプロスの映画や森の言葉にはそうしたことにつながるものがあるような気がする。]]> 
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            <name>toshi</name>
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    <published>2013-02-23T02:59:47+09:00</published> 
    <updated>2013-02-23T02:59:47+09:00</updated> 
    <category term="読むこと" label="読むこと" />
    <title>ベンヤミンとか</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[　ベンヤミンの「認識批判的序説」を読むのを断念した。いったいどれくらいの時間をこの文章の上に投入してきただろうか。<br />
<br />
　細部をクリアにできるか全体の構造がつかめるか、いずれかがはっきりしてくるならばそれなりに解きほぐしていけるのだろうが、いまの私の力量ではその両方が一つの像を結ばない。理念、概念、現象&hellip;そんな基本的なタームがわからない。すべてにおいて曖昧で、ぐにゃぐにゃした状態を脱することができない。<br />
　ベンヤミンの研究書だって読んだんだ。それは通り一遍にわかる。けれども、どうにもこうにも「なるほど」と腑に落ちるものが何もない。<br />
<br />
　並行してベンヤミンの言語理論を少し繙いてみた。著作集の3巻。「言語と社会」所収のもの。最初の論文は、彼が24歳の時に書いた「言語一般および人間の言語」。驚いた。ベンヤミンの言語についての認識は私の想像とはまったくことなっていた。そしてその7年後に書いた上記の「認識批判的序説」は部分的にその直接的な延長線上で書かれている。<br />
<br />
　ベンヤミンは事物の言語を考えている。人間の言語だけではなく、事物に精神的本質を認め、その言語について論じている。それは彼がユダヤ教徒であったことに起因しているのかもしれない。そうか、と思う。創世記は言葉＝ロゴスにはじまる。事物は神がつくったものとして精神的・言語的本質を有するものとして彼には感得されている。<br />
<br />
　読めないはずだ。私は言語をどこまでも人間の言語のうちで考えていた。まったく世界の感受の仕方がちがう。<br />
<br />
<br />
　そういえば、得心のいくことがある。<br />
<br />
　幼年時代にこだわり、事物のデティールに滑りこむようにして彼は歴史を幼年期に向かって遡上する。それは箪笥のかげで、納戸のおくで、庭の隅の植え込みの向こう側でおこなわれる一つの冒険だ。<br />
　そして晩年の彼はパリのパサージュ論の大量の論稿をかかえていた。パリの街路の19世紀の姿を活写する。<br />
　そうか、と思う。<br />
<br />
　ベンヤミンにとってこの世界は、囁くような言葉に満ちていたのかもしれない。それはいま目に見えているものの声ではない。「歴史哲学テーゼ」では、過去の廃墟に潜む鈍く光るものを救済しようとする。そしてその廃墟の中には1919年の血の海に沈められたドイツ革命や暗殺されたローザ・ルクセンブルグが立っているに違いない。<br />
<br />
　世界は、事物は、あるいは歴史をその衣の下に潜ませた事物は、ベンヤミンのこっそりとささやきかけていたような気がする。それはちょうど、ナチス支配下のパリで、ユダヤ人であるベンヤミンたちがひっそりとした短い言葉でしか本当に言いたいことを語ることができなかったことと同じなのかもしれない。<br />
<br />
<br />
　そうしたベンヤミンの姿を捉えたい。その視界を垣間見たい。<br />
　だからいま、ベンヤミンの言語論を読み、あわせてパサージュ論を読み始めた。ついでにへいこうしてアドリアンヌ・モニエの「オデオン通り」を読んでいる。書店「本の友の家」を主催し、1920年代、30年代のパリのアヴァンギャルドたちのなかに場所を提供した彼女の回想には、オデオン通りを遊歩するベンヤミンがもうすぐ姿を見せることになる。<br />
<br />
　文学を志し、ポール・ヴァレリーのもとに通い、周囲の心配する声にもかかわらず収容所にとらわれたユダヤ人たちの支援活動をしていたエレーヌ・ベールという女性がいる。ユダヤ人として、非ユダヤの友人たちのナチスに対するあまりの鈍感さに直面しながら、彼女はどこかで自分も収容所で命を落とすことになるだろうとどこかで予感し、それでもパリを脱出しなかった。少し前に彼女の日記は邦訳が出版された。日記は彼女が強制収容所に連行される直前で終わっている。もう日記を書くこと、書き残すことはできなかった。<br />
<br />
　きっとオデオン通りにはエレーヌも姿を見せたことだろう。ひょっとするとベンヤミンと彼女はどこかですれ違っていたかもしれない。1930年代はそうした時代だった。そのなかでベンヤミンは小さな消されてしまいそうな言葉を聞き届けていたのだろう。<br />
<br />
<br />
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