忍者ブログ
since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
4 5 6 7 8 9
[  11/25  [PR]  ]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

[  09/03  SIONの唄  ]
 いつだってびっくりさせて
心配させていけないね
それだって嬉しくなるから
父さんがいたらきっと怒られる

いつでもここにいるから
帰ってきていいんだよ
そう思えばあと一つ二つ
できる我慢もふえるでしょ  がんばれがんばれ

長い雨がやっと上がったから
犬と散歩をしてきたよ
ちっちゃい頃のおまえのまねして
水溜まりで遊んだよ

気が強いくせになんだか
泣き虫だったね
ポロポロ涙こぼれているのに
泣いてなんかないっていいはって  がんばれがんばれ

はやいようで
長いようで
これまでも
これからも

庭先にうえたコスモス
きれいに咲いてくれたよ
父さんに代わって毎年
種をまいているからね

いつでもここにいるから
帰ってきていいんだよ
そう思えばあと一つ二つ
できる我慢もふえるでしょ  がんばれがんばれ
(作詞・作曲 SION 『がんばれがんばれ』) 

こんな歌を聴く。かすれた声でSIONが歌っている。
人間の声で、人間の言葉で、人間のことを歌っている。

この場に書く内容なのかどうか分からないけれども、どうしても書き残しておきたくなった。
君たちは一人ではないんだ。いいかな?
PR
  「ぼくら人間について、大地が万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。人間というのは、障害物に対して戦う場合に、はじめて実力を発揮するものなのだ。……努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。」(『人間の土地』序文 サン=テグジュペリ 堀口大學訳)

強い言葉だ。
困難に立ち向かい、その壁ぶつかり、壁の固さと痛みから刻み出された言葉だ。彼は壁があるからこそ、そのとき人間が輝くと言っている。そしてそこから繋がりあうのだと言っている。

『星の王子様』(直訳すると『小さな王子様』)で知られているサン=テグジュペリ。そのイメージは強い。けれども上の言葉は彼の『人間の土地』の序文に書かれているものだ。
小説家である以前に、彼は飛行機乗りだった。しかもいまだ飛行機というもの自体が、またそのルートが開拓されつつある時代に彼は冒険的に飛行機輸送のルート切り開いていく者だった。
ほとんどの彼の小説は飛行機乗りの視点から、その不思議な遠近感から大地とそこに生きる人間を捉え、描き出した。
『星の王子様』、『南方郵便機』、『夜間飛行』、『人間の土地』、『闘う操縦士』『戦時の日記1~3』…

短い生涯だった。最後は墜落して死んだ。偵察飛行だった。アフリカにある基地からナチスに占領された地域へ。ナチス・ドイツに支配された祖国フランスのために。軍隊からは拒否されたにもかかわらず、商業飛行の開拓者だったサン=テグジュペリはフランス軍(自由フランスだろうと思うが)に潜り込み、前線への偵察に飛び立った。
彼は『人間の土地』の序文のように生きたのだろうか。「ぽつりぽつりと光っている」灯火は、あるいはレジスタンスの地下抵抗運動の象徴なのかも知れない。いや抵抗運動というはっきりしたものだけではないだろう。なぜならフランス・レジスタンスは、そのレジスタンスの闘いにとどまらず、あらゆる面でナチス・ドイツを拒否しようとしていた。ヴェルコールが『海の沈黙』を書いた。それは日常のすべてを貫くみごとな、峻厳なナチスへのフランスの拒絶だった。海のような沈黙としての。

ナチスとの戦いの中、彼は『戦う操縦士』という作品を書いた。小説なのだろうか? ほとんど事実そのままのように思う。
彼はその本の最後の方で、膨大な言葉を費やし、全身を叩きつけるようにして、フランスへ、世界へ、そこに生きる人たちへのメッセージを書きつづっている。恐らく「ともしびたちと心を通じあう」ために、その「ともしび」たちが、戦争をくぐり抜け、生き抜き、そうした者として出会うために、言葉を発したような気がする。
そこから力を汲み出すことができる言葉として、その言葉は、いま、ここにも届くのだと思う。
 文学部と社会学部、あるいは社会学を志望する受験生がいて小論文や現代文の指導をしなくてはいけないところから、久しぶりに社会学と呼ばれる分野のものを読み続けている。
真木悠介『自我の起源』読了。このところ立て続けに彼の作品を読んだ。ちなみに「真木悠介」は社会学者・見田宗介のペンネームだ。岩波新書の『現代社会の理論』『社会学入門』、ちくまの『気流の鳴る音』。このあと、岩波から出ている『時間の比較社会学』、『存在の祭りの中へ』というタイトルの宮沢賢治論を続けて読もうと思っている。
国語や小論文が受験科目に入っている生徒がもっともっと腰を据えて勉強できれば、と思う。真木=見田の文章は本来、君たちこそが読むにふさわしいのだと思う。

しかし、ときに生徒には、目の前にある言葉の大半が、あるいは「がらくたの山」のように見えるのではないかと思うことがある。さもなければ数学などの問題と同じように、ただ試験問題として与えられ、読み、技術的に解答を作り上げ、問題を解き終わったらどこかに消え去ってしまうようなものに見えているのではないかと思うことがある。それはただ通過する情報の一欠片に過ぎないのかもしれない。
そこには私が負うべきこともある。けれども、いつからこれほど言葉軽くなったのだろう、軽く扱われるようになったのだろうとも思う。
数学の理論的なメモを「時間がない」と言いながら走り書きし、21歳で決闘にのぞみ死んだ天才数学者・ガロアのような存在は別としても、数学の入試問題に命がけのものなどはないだろう。

けれども現代文は違う。
例えば39歳で死んだ作家の高橋和巳は、どこかで「文章を書くことは、どこかで命を削るようなことなのです」と書いていた。西行は「ねがわくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と書き残した。
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」と書いた梶井基次郎は、西行のイメージを共有していたのかも知れない。

いずれも20年以上の前に読んだものだ。しかし私の中にこびりついて離れない言葉だ。記憶だけで今も書くことができる。
こびりついているのは、その言葉の向こうがわに、生きた人間の、生きていた人間の存在を感じとるからだ。言葉に託して去った存在があると思うからだ。その存在の感触に自分の何かが触発され、壊され、そして反応するからだ。そうした言葉は20年以上のときを隔ててもなお脈々と鼓動し続けることができる。

生徒たちを前にして思う。君たちがいま、手にしている言葉は、少なくともその一部は、そうしたものが込められている。そこには血が流れ、鼓動が脈打ち、君たちに託そうとする何かがある。
本来の現代文の読解は、そうしたものへ触れるための論理と想像力を求めるものなのだろうと思う。
そうしたものの一端に、少なくともその存在の感触に、君たちがどこかで触れることができるなら、と思う。

真木悠介=見田宗介もまたそうした想いを託している。
「自分にとって本当に大切である問題、その問題と格闘するために全青春をかけても悔いないと思える問題を手放すことなく、どこまでも追求しつづけることの中に、社会学を学ぶ、社会学を生きるということの<至福>はあります。どんな小さいレポートでも、どんなに乾燥した統計数字の分析でも、読む人はそのような仕事の中に<魂>を見ます。これは「魂のある仕事だ」ということを感じます。」(『社会学入門』岩波新書 P14)

「時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに、本当に切実な問いと、根柢を目ざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに、わたしはことばを届けたい。
虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言説は未だ崩壊していない、だからこの種子は逆風の中に播かれる、アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちのうちに、青青とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類のしようのない書物を世界の内に放ちたい。」(『自我の起源』岩波現代文庫 p207)

受け止めるべき主体の存在しない言葉は、そのまま宙にさまようしかない。私もこの場所でそれを受け止めたいと思う。でも真木=見田は、もっともっと若い世代に、それを託そうとしているのだと思う。
 現代文の授業で渡辺一夫を読む。1939年、第二次世界大戦突入(ドイツのポーランド侵攻)直後の文章だ。ヒトラーやムッソリーニが権力を握り、日本はすでに中国との全面戦争に入っていた。こうした時代の中で、ものをまともにいうことができない時代の中で、多くの知識人と称される人々が戦争翼賛の文章を書き散らし始めているような状況の中で、なお「思想」や「倫理」の力に心の奥底で信頼し、それを決して捨てないという決意を込めた文章だ。
その渡辺の文章の粘り強い奥行きを高校生が捉えることは、ほとんど不可能だろうと思う。ときおり出題される例えば丸山真男などにしても、およそその全貌を掴んでの読解などのぞむべくもないように思う。

先日、石牟礼道子の文章(1996年センター試験追試)にも触れた。目の前の言葉から数百年の歴史を越えて、その向こう側を透視するような石牟礼道子の想像力の射程についていける高校生もなかなかいないだろうと思う。酷な出題だ。
けれどもそれが要求されている以上、くぐり抜けていくしかない。

けれども良い機会だと思う。なかなかこうした文章に出会うことはない。受験のためだけに読むには惜しい文章だ。読み捨てるには価値がありすぎる文章だと思う。
いまは時間がないかもしれない。ゆっくり腰を据えて読むことはできないかも知れない。ならばできれば、その名前と、文章の手触りを心のどこかにとどめておいて欲しいと思う。
 
[  08/07  はじめに  ]
「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。

ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。
そうしないといけないこともあるかも知れない。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。
ということで、私の個人のページを作りました。

受験勉強などからちょっと離れた、教室のブログに書くような内容ではないもの、そうしたものを気まぐれに書いていこうと思っています。
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア
最新CM
[12/21 T.A]
[10/01 T.A]
[10/01 T.A]
最新TB
プロフィール
HN:
toshi
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター
アクセス解析

忍者ブログ [PR]
"toshi" WROTE ALL ARTICLES.
PRODUCED BY SHINOBI.JP @ SAMURAI FACTORY INC.