since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
文学部と社会学部、あるいは社会学を志望する受験生がいて小論文や現代文の指導をしなくてはいけないところから、久しぶりに社会学と呼ばれる分野のものを読み続けている。
真木悠介『自我の起源』読了。このところ立て続けに彼の作品を読んだ。ちなみに「真木悠介」は社会学者・見田宗介のペンネームだ。岩波新書の『現代社会の理論』『社会学入門』、ちくまの『気流の鳴る音』。このあと、岩波から出ている『時間の比較社会学』、『存在の祭りの中へ』というタイトルの宮沢賢治論を続けて読もうと思っている。
国語や小論文が受験科目に入っている生徒がもっともっと腰を据えて勉強できれば、と思う。真木=見田の文章は本来、君たちこそが読むにふさわしいのだと思う。
しかし、ときに生徒には、目の前にある言葉の大半が、あるいは「がらくたの山」のように見えるのではないかと思うことがある。さもなければ数学などの問題と同じように、ただ試験問題として与えられ、読み、技術的に解答を作り上げ、問題を解き終わったらどこかに消え去ってしまうようなものに見えているのではないかと思うことがある。それはただ通過する情報の一欠片に過ぎないのかもしれない。
そこには私が負うべきこともある。けれども、いつからこれほど言葉軽くなったのだろう、軽く扱われるようになったのだろうとも思う。
数学の理論的なメモを「時間がない」と言いながら走り書きし、21歳で決闘にのぞみ死んだ天才数学者・ガロアのような存在は別としても、数学の入試問題に命がけのものなどはないだろう。
けれども現代文は違う。
例えば39歳で死んだ作家の高橋和巳は、どこかで「文章を書くことは、どこかで命を削るようなことなのです」と書いていた。西行は「ねがわくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と書き残した。
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」と書いた梶井基次郎は、西行のイメージを共有していたのかも知れない。
いずれも20年以上の前に読んだものだ。しかし私の中にこびりついて離れない言葉だ。記憶だけで今も書くことができる。
こびりついているのは、その言葉の向こうがわに、生きた人間の、生きていた人間の存在を感じとるからだ。言葉に託して去った存在があると思うからだ。その存在の感触に自分の何かが触発され、壊され、そして反応するからだ。そうした言葉は20年以上のときを隔ててもなお脈々と鼓動し続けることができる。
生徒たちを前にして思う。君たちがいま、手にしている言葉は、少なくともその一部は、そうしたものが込められている。そこには血が流れ、鼓動が脈打ち、君たちに託そうとする何かがある。
本来の現代文の読解は、そうしたものへ触れるための論理と想像力を求めるものなのだろうと思う。
そうしたものの一端に、少なくともその存在の感触に、君たちがどこかで触れることができるなら、と思う。
真木悠介=見田宗介もまたそうした想いを託している。
「自分にとって本当に大切である問題、その問題と格闘するために全青春をかけても悔いないと思える問題を手放すことなく、どこまでも追求しつづけることの中に、社会学を学ぶ、社会学を生きるということの<至福>はあります。どんな小さいレポートでも、どんなに乾燥した統計数字の分析でも、読む人はそのような仕事の中に<魂>を見ます。これは「魂のある仕事だ」ということを感じます。」(『社会学入門』岩波新書 P14)
「時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに、本当に切実な問いと、根柢を目ざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに、わたしはことばを届けたい。
虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言説は未だ崩壊していない、だからこの種子は逆風の中に播かれる、アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちのうちに、青青とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類のしようのない書物を世界の内に放ちたい。」(『自我の起源』岩波現代文庫 p207)
受け止めるべき主体の存在しない言葉は、そのまま宙にさまようしかない。私もこの場所でそれを受け止めたいと思う。でも真木=見田は、もっともっと若い世代に、それを託そうとしているのだと思う。
真木悠介『自我の起源』読了。このところ立て続けに彼の作品を読んだ。ちなみに「真木悠介」は社会学者・見田宗介のペンネームだ。岩波新書の『現代社会の理論』『社会学入門』、ちくまの『気流の鳴る音』。このあと、岩波から出ている『時間の比較社会学』、『存在の祭りの中へ』というタイトルの宮沢賢治論を続けて読もうと思っている。
国語や小論文が受験科目に入っている生徒がもっともっと腰を据えて勉強できれば、と思う。真木=見田の文章は本来、君たちこそが読むにふさわしいのだと思う。
しかし、ときに生徒には、目の前にある言葉の大半が、あるいは「がらくたの山」のように見えるのではないかと思うことがある。さもなければ数学などの問題と同じように、ただ試験問題として与えられ、読み、技術的に解答を作り上げ、問題を解き終わったらどこかに消え去ってしまうようなものに見えているのではないかと思うことがある。それはただ通過する情報の一欠片に過ぎないのかもしれない。
そこには私が負うべきこともある。けれども、いつからこれほど言葉軽くなったのだろう、軽く扱われるようになったのだろうとも思う。
数学の理論的なメモを「時間がない」と言いながら走り書きし、21歳で決闘にのぞみ死んだ天才数学者・ガロアのような存在は別としても、数学の入試問題に命がけのものなどはないだろう。
けれども現代文は違う。
例えば39歳で死んだ作家の高橋和巳は、どこかで「文章を書くことは、どこかで命を削るようなことなのです」と書いていた。西行は「ねがわくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と書き残した。
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」と書いた梶井基次郎は、西行のイメージを共有していたのかも知れない。
いずれも20年以上の前に読んだものだ。しかし私の中にこびりついて離れない言葉だ。記憶だけで今も書くことができる。
こびりついているのは、その言葉の向こうがわに、生きた人間の、生きていた人間の存在を感じとるからだ。言葉に託して去った存在があると思うからだ。その存在の感触に自分の何かが触発され、壊され、そして反応するからだ。そうした言葉は20年以上のときを隔ててもなお脈々と鼓動し続けることができる。
生徒たちを前にして思う。君たちがいま、手にしている言葉は、少なくともその一部は、そうしたものが込められている。そこには血が流れ、鼓動が脈打ち、君たちに託そうとする何かがある。
本来の現代文の読解は、そうしたものへ触れるための論理と想像力を求めるものなのだろうと思う。
そうしたものの一端に、少なくともその存在の感触に、君たちがどこかで触れることができるなら、と思う。
真木悠介=見田宗介もまたそうした想いを託している。
「自分にとって本当に大切である問題、その問題と格闘するために全青春をかけても悔いないと思える問題を手放すことなく、どこまでも追求しつづけることの中に、社会学を学ぶ、社会学を生きるということの<至福>はあります。どんな小さいレポートでも、どんなに乾燥した統計数字の分析でも、読む人はそのような仕事の中に<魂>を見ます。これは「魂のある仕事だ」ということを感じます。」(『社会学入門』岩波新書 P14)
「時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに、本当に切実な問いと、根柢を目ざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに、わたしはことばを届けたい。
虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言説は未だ崩壊していない、だからこの種子は逆風の中に播かれる、アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちのうちに、青青とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類のしようのない書物を世界の内に放ちたい。」(『自我の起源』岩波現代文庫 p207)
受け止めるべき主体の存在しない言葉は、そのまま宙にさまようしかない。私もこの場所でそれを受け止めたいと思う。でも真木=見田は、もっともっと若い世代に、それを託そうとしているのだと思う。
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