since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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「浪人しても成績は上がらない」とか「浪人しても第一志望に受かる人はほとんどいない」といった説に対する反論を読んだ。
私も言っておきたいなと思うことがあります。長文になります。
できれば浪人が決まった人、そうなりそうな人に読んでほしい。とくに国公立志望の人です。医学部だと国公立が前提だという生徒が少なくないですから。
私は個別指導で生徒を見てきました。2年間指導して浪人して3年でやっと第一志望に合格することも稀ではなかった。何でもうまくいったなんていいません。言ったようにすればいいんだなんて思いません。でもそのなかで経験的に感じてきたことです。
浪人しても第一志望に合格しないことなんてザラにあります。することもある。結論から言います。
1. 今、たったいま全力で勉強してください。
2. 1回目の記述模試でA判定を何が何でももぎ取ってください。
3. 夏には志望校の問題を解いて1/2回は合格平均点を叩き出してください。模試の判定ではありません。実際の問題で、です。必ずできるだけしっかりと自己採点して評価を下してください。
4. 2.3.を踏まえて受験が10ヶ月先と思わないでください。
5. なぜこんなに前倒しするのか。浪人生にとって国公立の第一志望の難易度が1段階か2段階上がってしまうからです。
高3生の学力はたいてい2次試験あたりでピークになります。勉強も最も集中力があり、必死で、時間も長くなります。それに身体も慣れています。そのままの勢いで浪人に突っ込んでください。合格発表なんて待たないでください。
具体的事例を出します。まぁ昔のことだし合格したから許してくれるだろうと思って。
K大理学部に浪人して合格した生徒がいます。
現役のとき、私の手応えは2-8くらいでした。ちょっと厳しいな、と。で突っ込みました。不合格。3月、自分で勉強してみたいということで、強く反対しましたが教室を休みました。4月に戻ってきました。学力はボロボロになっていました。一度勉強のエンジンが冷え切ってしまうと、それがフル回転し始めるのに時間がかかります。たぶんエンジン全開になったのがGWくらい。それまでは学力が低下し続けます。その生徒の学力が現役のピーク時に戻ったと感じたのはいつだと思いますか?10月下旬です。やっと戻ってきた、と。私は数学と現代文を見ていましたが、生物・化学を見ていた講師ともこの見解は一致しています。それから3,4ヶ月です。つまり現役時の2-8に3ヶ月分か4ヶ月分しか上乗せできなかった。
だから感触でいえば五分五分にしか持ち込めなかった。しかし強引に受験し、何とか合格しました。
この生徒は自分がやりたいことがその大学に見つけていたので強引に突っ込みました。そうでなければ受けられなかった。
国公立志望の場合、浪人生は五分五分では突っ込めないのです。そんなリスクを侵すことはできない。だから普通だったらリスクを回避し、志望校を下げる。
上記の5.ですが、現役生は五分五分だったら当然のように突っ込むことが多い。けれども浪人生にはそれはできない。7-3でも難しいかもしれない。医学部だと私大が無理だというケースが少なくない。だからこうなってしまいます。
これは少し極端な事例かもしれないけれど、今、この時期に勉強を緩めると学力が低下します。かなり急速に、です。共通テスト後、数Ⅲの積分計算ができなくなっていた人、多いでしょう?それの極端バージョンになります。
だから今、なんです。今この時点で受験直前のような集中力と執念で勉強を絶やさないでほしい。
2.3.にかかわってですが、個々の浪人生にとっては別ですが、全体として言えば現役生と浪人生では伸び率が違います。それはそうです。だから例えば相対的な評価である偏差値が下がっても、絶対的な学力が下がっているわけではなかったりします。だから現役生の方が伸び率が大きいと浪人生の偏差値は後半に下がることが多いです。
これは私の指導が悪いのかもしれないけれども、浪人生で第1回の記述模試の偏差値が一番高いということがそれほど珍しくない。現役生との学力差が一番大きいので。だから何とてもここでA判定を叩き出してほしい。せめてB判定。それを考えても3月は必死にやらないといけないです。
このことにはもう一つの意味があります。
浪人生にはずっとD判、E判を見続けてきた人が少なくない。そして受験もうまく行かなかった。あちらこちらからいろいろ言われることも少なくない。何より自分が自分を信じられない。自信もない、誇りもない、心が折れる寸前だったり、何度も実際に折れたりする。励ましてくれる人もいる。でもそれも虚しく聴こえる。ありがたいけど逆にムカついたりする。そんな受験生は少なくないと思う。
可能性を信じることは大切だし頑張ることも重要だ。でもそれを支えられない。
受験生は一喜一憂するものです。その自分を励ますために、この1回目の記述模試、本気で頑張ってください。必死にA判定を出してください。何よりも失っていた自信とかプライドとか、相当に回復します。実際に結果を叩き出さないと得られないものが確かにある。E判、D判しか見たことがなかった人、初めてのA判、B判みて、まぁ現役生がまだまだだからな、とは思うかもしれない。思うかもしれないけど、それでも絶対に変わるものがあるから。それは信じて良いことだと思います。
それから偏差値は下がるかもしれない。
でも第一志望の問題と戦ってそれをねじ伏せられるなら問題はない。周りの動きは実はあんまり関係ない。
9-1、少なくとも8-2に持ち込むためには夏の段階で五分五分にはする。
このプロセスで考えてほしいことがあります。
まず自分の強み、武器が相手に通用するレベルなのかどうか。これが通用しないならとりあえず必ず敗北します。だからその段階は苦手を詰めるより武器を磨いてください。武器がなければ自分を支える土台もできません。武器がある程度相手と噛み合い、五分五分に持ち込んだ。このときのラインは合格者平均で考えてください。浪人生はギリギリの合格なんか目指しちゃダメです。
でも五分五分に人生をかけられない。だから夏以降は、自分の苦手な分野、単元、問題形式が重なっても合格できるところに持ち込む戦いです。たいてい苦手なところは嫌いなところです。嫌いなところをやりきるのはたいてい凹みます。だから後半は苦しい戦いです。でもこれをやらないとギャンブルになります。
苦手な問題、領域をやり続けると「できる」という感触を忘れてしまうことがあります。まぁ大抵そうなります。そうすると全体に調子を崩します。リズムが悪くなる。数学などでも自信を失うと本来解けるはずの問題ができなくなったりします。こうかな?ダメそうだな、そんな判断がダメな側に振れてくる感じです。10月あたりはそもそも受験生が調子を崩しやすいですし。そうしたときの一つの方法は得意な分野、できる分野の問題を少し集中してやってください。そしてリズムを取り戻してください。できていたときはちょっと困難に直面しても踏みとどまって打開できたりしたでしょ?その感覚を取り戻してください。
それから本当はこれがいちばん大切なことかもしれないですが、自分の学力の手応えにたった評価を自分で下せるようになってください。素点や偏差値は重要だけど、それは一つのものさしに過ぎない。それで測れるものと測れないものがある。同じ偏差値の生徒が、同じ素点の生徒が、同じ学力、同じ特徴ではない。自分の顎力の特徴を自分で掴んでください。周りに何と言われようと最終的には自分で信じられるレベルで。例えば運動で、同じコーチについて同じ練習をしても、自分の課題を自覚している人としていない人とでは多分結果は変わります。こういうことができる、できない、それを詰めてください。そのためには各々教科、学力を構成している要素をよく考えてください。自分は数学的な思考力が足りないのに、センスや思考力があるけど計算力が足りない人が「これがいいよ」といってもそれは間違いです。そういう自分自身の学力の特徴をよく見極めてください。そしてゴールまでの道、その手応えのようなものを掴み出せたらたいてい何とかなります。
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「外科医はだれしも自分の中に小さな共同墓地をもっており、ときおりそこを訪れ、祈りを捧げる――そこは苦渋と悔恨の場所であり、外科医はそこで自分が犯してきた失敗の数々の言い訳をさがさなければならない」
「苦しむ者のなかに
私の助言を求める者のなかに
人間を見ることができますように
富者か貧者かでもなく
友人か敵かでもなく
善か悪かでもなく
ただ人間だけを見ることができますように」
ひとの命の流れは一夜の夢のごとく
朝に生え出ずる青草のごとし
朝に花開きて栄え
夕べには、刈られて枯るるなり…
われらがすべての年のつくるは一息のごとし
われらが年をふる日は七十歳にすぎず
あるいは健やかにして八十歳にいたらん
されどその誇りと栄光とはただ勤労と偽りとのみ
そはたちまちにして断たれ、われらもまた飛び去れり…
願わくはわれらにおのが日を数うることを教えて
知恵の心を得さしめたまえ
(『外科の哲学』1951年 ルネ・ルリッシュ)
「苦しむ者のなかに
私の助言を求める者のなかに
人間を見ることができますように
富者か貧者かでもなく
友人か敵かでもなく
善か悪かでもなく
ただ人間だけを見ることができますように」
(モーゼス・マイモニデスの祈り)
ひとの命の流れは一夜の夢のごとく
朝に生え出ずる青草のごとし
朝に花開きて栄え
夕べには、刈られて枯るるなり…
われらがすべての年のつくるは一息のごとし
われらが年をふる日は七十歳にすぎず
あるいは健やかにして八十歳にいたらん
されどその誇りと栄光とはただ勤労と偽りとのみ
そはたちまちにして断たれ、われらもまた飛び去れり…
願わくはわれらにおのが日を数うることを教えて
知恵の心を得さしめたまえ
(詩篇九十篇)
数学にしても英語にしても、あるいは現代文やその他にしても、その教科の「学力」を構成する力を明確にすること。
たとえば数学は、
数学的知識、計算力、数式の処理能力(同値関係についての認識や論理力を含む)、論理力、分析力、発想力、試行錯誤する力、具体的なものから抽象的なものをつかみ出す力、逆に抽象的・一般的なものを具体的に捉える力、図形・グラフなどの視覚的な対象のイメージ力・把握力…
ざっと考えてもいろいろと出てくる。
これはたとえば漸化式ができないから数列の極限ができないとか、三角関数の処理能力が不足して数Ⅲの微積分ができない、というような意味での数学的体系における内容的な構成要素とは違う。論理力がないから数学1Aの集合と論理のところを勉強する、ということではない。あらゆるところで学ぶことであり、また学ばない人は、あらゆるところで学ばない。
単元別ではなく、こうした、なんと言ったらいいのだろう?「能力別」というべきか? そういう切り口で自分の力を分析し、対象化し、それを踏まえて学習するというあり方を作りあげることができれば、かなり大きな飛躍が可能になると思う。
現代文を読む力にしても、かなり多くの要素があるんだけどな。
けれども現代文を「問題をとくため」に読んでほしくない。読み捨てにすべきではない。あれだけの文章を読み続けているのに、何もそこから汲み出さないのであれば、本当に現代文という教科が悲しむ。
たとえば数学は、
数学的知識、計算力、数式の処理能力(同値関係についての認識や論理力を含む)、論理力、分析力、発想力、試行錯誤する力、具体的なものから抽象的なものをつかみ出す力、逆に抽象的・一般的なものを具体的に捉える力、図形・グラフなどの視覚的な対象のイメージ力・把握力…
ざっと考えてもいろいろと出てくる。
これはたとえば漸化式ができないから数列の極限ができないとか、三角関数の処理能力が不足して数Ⅲの微積分ができない、というような意味での数学的体系における内容的な構成要素とは違う。論理力がないから数学1Aの集合と論理のところを勉強する、ということではない。あらゆるところで学ぶことであり、また学ばない人は、あらゆるところで学ばない。
単元別ではなく、こうした、なんと言ったらいいのだろう?「能力別」というべきか? そういう切り口で自分の力を分析し、対象化し、それを踏まえて学習するというあり方を作りあげることができれば、かなり大きな飛躍が可能になると思う。
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現代文を読む力にしても、かなり多くの要素があるんだけどな。
けれども現代文を「問題をとくため」に読んでほしくない。読み捨てにすべきではない。あれだけの文章を読み続けているのに、何もそこから汲み出さないのであれば、本当に現代文という教科が悲しむ。
数学と物理などの自然科学の違い。
論理学としての数学と、自然そのものに正誤の判断が委ねられているものの違い。もっとも、特に物理学は、ナマの自然が対象なのではない。概念化され、モデル化された自然。あるいは抽象された自然といってもいいし、分節化された自然といってもいい。その数学的表現が物理といってもいいかもしれない。
もっともその「抽象」は、観念的な仮定では必ずしもなく、物理が実験を媒介にして自然と接する際にすでに抽象化されている。抽象が個別具体的なものの捨象であるならば、物理の実験は確かに自然の抽象化にほかならない。しかしそれは自然そのものが許容する限りにおいての抽象であって、人間によって完全に自由になるわけではない。
しかし現実の教科や受験のなかでそうした角度から物理を捉えるような指導はおよそなされているとは言えない。
自然の過程に内在する法則。もっともそうした捉え方自体に検討すべきことはあるが、とりあえず「自然に内在する法則」としておく。それを概念的に掴み出し、定量的関係として捉えるところに物理が成り立っている。
その関係を切断することが横行している
結果は簡単明瞭だ。
理論は自然から切り離された紙切れの上の文字に落とし込められ、そうすることによって法則は自然法則ではなくなり、現象は概念的に分節化されず、暗記している記憶を引き出すための「検索キー」にすぎないものになる。理論と現象の緊迫した関係が失われ、理論はただのお題目になり、固定化され、現象は理論と無関係な経験主義的に把握されるだけの存在になる。こうして物理学は破壊され、その演習は、問題を解くためのただのパズルに堕する。そうなったとき、その演習はすでに物理ではないなにものかになる、演習をすればするほど物理学は破壊されていくことになる。
自然との緊張関係を失ったところに自然科学が成立するはずがないし、高校で学んでいる物理、化学、生物がまがりなりにもその自然科学の入口のドアのノブくらいの意味しかないのであっても、それが物理や化学、生物の一環である限り、自然との緊張を失ったらそこで終わる。
論理学としての数学と、自然そのものに正誤の判断が委ねられているものの違い。もっとも、特に物理学は、ナマの自然が対象なのではない。概念化され、モデル化された自然。あるいは抽象された自然といってもいいし、分節化された自然といってもいい。その数学的表現が物理といってもいいかもしれない。
もっともその「抽象」は、観念的な仮定では必ずしもなく、物理が実験を媒介にして自然と接する際にすでに抽象化されている。抽象が個別具体的なものの捨象であるならば、物理の実験は確かに自然の抽象化にほかならない。しかしそれは自然そのものが許容する限りにおいての抽象であって、人間によって完全に自由になるわけではない。
しかし現実の教科や受験のなかでそうした角度から物理を捉えるような指導はおよそなされているとは言えない。
自然の過程に内在する法則。もっともそうした捉え方自体に検討すべきことはあるが、とりあえず「自然に内在する法則」としておく。それを概念的に掴み出し、定量的関係として捉えるところに物理が成り立っている。
その関係を切断することが横行している
結果は簡単明瞭だ。
理論は自然から切り離された紙切れの上の文字に落とし込められ、そうすることによって法則は自然法則ではなくなり、現象は概念的に分節化されず、暗記している記憶を引き出すための「検索キー」にすぎないものになる。理論と現象の緊迫した関係が失われ、理論はただのお題目になり、固定化され、現象は理論と無関係な経験主義的に把握されるだけの存在になる。こうして物理学は破壊され、その演習は、問題を解くためのただのパズルに堕する。そうなったとき、その演習はすでに物理ではないなにものかになる、演習をすればするほど物理学は破壊されていくことになる。
自然との緊張関係を失ったところに自然科学が成立するはずがないし、高校で学んでいる物理、化学、生物がまがりなりにもその自然科学の入口のドアのノブくらいの意味しかないのであっても、それが物理や化学、生物の一環である限り、自然との緊張を失ったらそこで終わる。