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since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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 数学と物理などの自然科学の違い。

 論理学としての数学と、自然そのものに正誤の判断が委ねられているものの違い。もっとも、特に物理学は、ナマの自然が対象なのではない。概念化され、モデル化された自然。あるいは抽象された自然といってもいいし、分節化された自然といってもいい。その数学的表現が物理といってもいいかもしれない。
 もっともその「抽象」は、観念的な仮定では必ずしもなく、物理が実験を媒介にして自然と接する際にすでに抽象化されている。抽象が個別具体的なものの捨象であるならば、物理の実験は確かに自然の抽象化にほかならない。しかしそれは自然そのものが許容する限りにおいての抽象であって、人間によって完全に自由になるわけではない。

 しかし現実の教科や受験のなかでそうした角度から物理を捉えるような指導はおよそなされているとは言えない。

 自然の過程に内在する法則。もっともそうした捉え方自体に検討すべきことはあるが、とりあえず「自然に内在する法則」としておく。それを概念的に掴み出し、定量的関係として捉えるところに物理が成り立っている。
 その関係を切断することが横行している

 結果は簡単明瞭だ。
 理論は自然から切り離された紙切れの上の文字に落とし込められ、そうすることによって法則は自然法則ではなくなり、現象は概念的に分節化されず、暗記している記憶を引き出すための「検索キー」にすぎないものになる。理論と現象の緊迫した関係が失われ、理論はただのお題目になり、固定化され、現象は理論と無関係な経験主義的に把握されるだけの存在になる。こうして物理学は破壊され、その演習は、問題を解くためのただのパズルに堕する。そうなったとき、その演習はすでに物理ではないなにものかになる、演習をすればするほど物理学は破壊されていくことになる。
 自然との緊張関係を失ったところに自然科学が成立するはずがないし、高校で学んでいる物理、化学、生物がまがりなりにもその自然科学の入口のドアのノブくらいの意味しかないのであっても、それが物理や化学、生物の一環である限り、自然との緊張を失ったらそこで終わる。
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