since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
内田のこの小著の目次は前回書いた。その第1章「読むこと」と「聴くこと」と。
この章はもともと一つの講演からなっているが、まず「はじめに――読書の問題性」からはじまり、§1読みの構造、§2読み深めの諸相、§3聴くということ、なっている。読むところからはじまって聴くことで終わる。
(いかは つづきはこちら へ)
この章はもともと一つの講演からなっているが、まず「はじめに――読書の問題性」からはじまり、§1読みの構造、§2読み深めの諸相、§3聴くということ、なっている。読むところからはじまって聴くことで終わる。
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内田義彦の『読書と社会科学』という本がある。1985年に出版された岩波新書。講演などで話をしたことがまとめられている。「読みやすい」と言えば読みやすい。難しい言葉がたくさん使ってあるわけではない。けれどもおそらくいまの高校生には読めないものだろう。
全体の構成は、
Ⅰ「読むこと」と「聴くこと」と
Ⅱ 自由への断章
Ⅲ 創造現場の社会科学――概念装置を中心に――
となっている。
内田はこの構成を通して、読むこと、言葉を読むこと・古典を読むことから経験科学の創造から概念装置の意義とその創造について語っていく。それは同時に「見えないもの」を捉える方法論の構築でもある。あるいは「見えないものを見る」目をどう作り出すのか、と言うことである。そのとき浮かび上がるのが「言葉」だ。社会科学は概念という言葉を通して見えない社会というものを捉えようとするところのものだからだ。
読みにくいところがあるわけでもない。けれども読めない。おそらく読めないだろう。古くさい感じもするかもしれない。たった20年前の本だが、そういう受け取られ方もするかもしれないと思う。
読み返しつつ考えた。内田の本の内容が変わったわけではない。けれどもそれが違和感のあるもの、すんなりと入ってこないものであるとするならば、それはこの20年、25年のあいだの時代の変化の何事かにつながっていることなのだろう。であれば、それは捉えるに価することのはずだと思う。
語彙のズレもある。背景となる時代も多少違う。
けれどもそうしたことが言葉への距離の違いとなって現れているように思う。ちょっと表現しにくいけれども、言葉の手触りと言っても良いだろうか。すくなくともここで内田が語っている言葉はおのおのある種の実体、ある種の質量をもっていた。それがどこかに消えてしまったように思う。
しかしそれはただ消えてしまっただけなのだろうか。
この文章は後半で岡真理や高橋哲哉、細見和之などの論にふれようと思っている。そこでは「語り得ぬものを語ること」についての濃密な議論がある。2005年の神戸大学はユダヤ人へのホロコーストとその証言をめぐって真っ正面から議論をたてた長大な文章を問題文として出した。高橋哲哉の『記憶のエチカ』の第1章からの作問だった。語ることも記憶することもできないほどに巨大な歴史的出来事としてのホロコーストの核心部分にいた証言者は、だからこそ筋道を立てて語ること、証言することができない。1990年代後半はそうした<忘却の穴>(ハンナ・アレント)に飲み込まれていた何事かの存在が覚知されはじめた時代だ。確かに存在した。けれども語るべき言葉がない。しかもそれは自明だと思われた歴史像の大きな改変を要求するものでもあるとするならば、いったいこれまでの社会科学の概念はどうなるのだろうか。
歴史や歴史学、社会科学はどうなるのか。それまでの概念構成をすべて破壊したところにしか成り立たないのか。もしそうであるとすれば内田義彦の文章が「古き良き時代」のいまでは通用しないものであるということになるのかもしれない。
しかし果たしてそうなのだろうか。
そうしたことを考えてもみたいと思う。
まずは内田義彦の『読書と社会科学』を読む。軌道が明確になっているわけではない。結論めいたものへの予感はないわけではない。けれども、いまそれは形をもっていない。書き進めるうちに何かの形がぼんやりとでも浮かべば、と思う。
全体の構成は、
Ⅰ「読むこと」と「聴くこと」と
Ⅱ 自由への断章
Ⅲ 創造現場の社会科学――概念装置を中心に――
となっている。
内田はこの構成を通して、読むこと、言葉を読むこと・古典を読むことから経験科学の創造から概念装置の意義とその創造について語っていく。それは同時に「見えないもの」を捉える方法論の構築でもある。あるいは「見えないものを見る」目をどう作り出すのか、と言うことである。そのとき浮かび上がるのが「言葉」だ。社会科学は概念という言葉を通して見えない社会というものを捉えようとするところのものだからだ。
読みにくいところがあるわけでもない。けれども読めない。おそらく読めないだろう。古くさい感じもするかもしれない。たった20年前の本だが、そういう受け取られ方もするかもしれないと思う。
読み返しつつ考えた。内田の本の内容が変わったわけではない。けれどもそれが違和感のあるもの、すんなりと入ってこないものであるとするならば、それはこの20年、25年のあいだの時代の変化の何事かにつながっていることなのだろう。であれば、それは捉えるに価することのはずだと思う。
語彙のズレもある。背景となる時代も多少違う。
けれどもそうしたことが言葉への距離の違いとなって現れているように思う。ちょっと表現しにくいけれども、言葉の手触りと言っても良いだろうか。すくなくともここで内田が語っている言葉はおのおのある種の実体、ある種の質量をもっていた。それがどこかに消えてしまったように思う。
しかしそれはただ消えてしまっただけなのだろうか。
この文章は後半で岡真理や高橋哲哉、細見和之などの論にふれようと思っている。そこでは「語り得ぬものを語ること」についての濃密な議論がある。2005年の神戸大学はユダヤ人へのホロコーストとその証言をめぐって真っ正面から議論をたてた長大な文章を問題文として出した。高橋哲哉の『記憶のエチカ』の第1章からの作問だった。語ることも記憶することもできないほどに巨大な歴史的出来事としてのホロコーストの核心部分にいた証言者は、だからこそ筋道を立てて語ること、証言することができない。1990年代後半はそうした<忘却の穴>(ハンナ・アレント)に飲み込まれていた何事かの存在が覚知されはじめた時代だ。確かに存在した。けれども語るべき言葉がない。しかもそれは自明だと思われた歴史像の大きな改変を要求するものでもあるとするならば、いったいこれまでの社会科学の概念はどうなるのだろうか。
歴史や歴史学、社会科学はどうなるのか。それまでの概念構成をすべて破壊したところにしか成り立たないのか。もしそうであるとすれば内田義彦の文章が「古き良き時代」のいまでは通用しないものであるということになるのかもしれない。
しかし果たしてそうなのだろうか。
そうしたことを考えてもみたいと思う。
まずは内田義彦の『読書と社会科学』を読む。軌道が明確になっているわけではない。結論めいたものへの予感はないわけではない。けれども、いまそれは形をもっていない。書き進めるうちに何かの形がぼんやりとでも浮かべば、と思う。
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02/21
言葉:読むことについて②
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同じ人は一人もいない。同じ感情も一つもない。けれども、それは同じ言葉で語られ以外に語ることができない。
ときどき、そのような言葉を「暴力的だ」と感じることがある。
他に言いようがない。言いようがないけれども、その言葉はたった一つの想いを表すことができないのかもしれない。けれども、そうした言葉にむりやりねじ込むようにして何事かを押し込め、放つほかないことがある。
(以下は つづきはこちら へ)
ときどき、そのような言葉を「暴力的だ」と感じることがある。
他に言いようがない。言いようがないけれども、その言葉はたった一つの想いを表すことができないのかもしれない。けれども、そうした言葉にむりやりねじ込むようにして何事かを押し込め、放つほかないことがある。
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京都学派の哲学者・西田幾多郎がこんなことを述べている。
「偉大な思想家の思想というものは、自分の考えが進むに従って異なって現れて来る。そして新たに教えられるのである。」「はじめてアリストテレスの『形而上学』を読んだのは、30過ぎの時であったかと思う。それはとても分からぬものであった。然るに50近くになって、俄に(にわかに)アリストテレスが自分に生きて来た様に思われ、アリストテレスから多大の影響を受けた」(西田幾多郎「読書」より 京都大学2004年入試問題から重引 一部旧仮名遣いを書き換えた)。
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「偉大な思想家の思想というものは、自分の考えが進むに従って異なって現れて来る。そして新たに教えられるのである。」「はじめてアリストテレスの『形而上学』を読んだのは、30過ぎの時であったかと思う。それはとても分からぬものであった。然るに50近くになって、俄に(にわかに)アリストテレスが自分に生きて来た様に思われ、アリストテレスから多大の影響を受けた」(西田幾多郎「読書」より 京都大学2004年入試問題から重引 一部旧仮名遣いを書き換えた)。
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京都大学は現代文の問題文に比較的古いものを出すことが多い。例えば森鴎外、島崎藤村、寺田寅彦(夏目漱石の友人で物理学者)、戦前の京都学派と言われた哲学の西田幾多郎、永井荷風や泉鏡花などなど。明治文語文がときおり出題されることがある。
以下はちょっと再論のようになる。(石牟礼道子、渡辺一夫…http://parlabasso.dou-jin.com/Entry/2/)
歴史をどう捉えているかで読み方がかなり変わってくる。
ここで求められている歴史とは、何年に何があったというだけのものではない。その書き手がいったい何を見ていたのか、その視界を感じとることができるような、そういう歴史的な視野だ。ただ、その際、「何年に何があったなどということを覚えることに意味はない」ということは経験上、間違っていると思う。確かに数字だけでは意味がない。けれどもその数字は重要なヒントになる。
例えば東大のフランス文学者で森有正や大江健三郎の先生にあたる渡辺一夫の文章を、「oct1939」という日付入りで問題文に採用している(Z会 現代文のトレーニング記述編 所収)。どこかの入試問題だろうか。
そこで「一二の外国の指導者の行動が与える教訓は、思想の脆弱性に対する人間の自責を感じさせることは当然であるとしても」、とした上で、「我々がなすべき唯一の仕事は、思想や倫理に対する信頼と愛の保持強化と、その拡大以上にはないようにも思われる」と述べている。そしてプラトンの描くソクラテスに触れながら「ソクラテスの魂に心を撃たれぬ人間はもちろん人間ではないが、心を撃たれながらも自らを巧みに卑下しながら赤い舌を出すことによって保身を全うせんとするのが我々の悪癖である。これに思いを致して慚愧感憤せざる時、われわれは畢竟するに泥水にただ育々と生きる『考えざる葦』以外のものではなくなることを覚悟せねばならない」と結んだ。
いったい「一二の外国の指導者」とは誰だろう。その行動とは何だろう。「oct1939」。世界史・日本史を高校で学ぶということはこの文章が読めるようになると言うことであって欲しい。
第二次世界大戦は1941年12月の日米開戦で始まるのではなく、1939年7月のドイツによるポーランド侵攻からはじまる。その3ヶ月後に書かれた文章だ。ならばこの指導者はまぎれもなくヒトラーとムソリーニをさしているに違いない。行動とは第二次世界大戦の勃発、あるいはポーランドへの侵攻のことであることは間違いないだろう。
しかしそれだけではないかもしれない。
「ヒトラーがドイツ首相の地位についたのは1933年1月30日のことであったが、ダッハウの、最初の強制集中収容所の開設がミュンヘン知事によって新聞に公表されたのはそのわずか3ヶ月後、3月30日のことであった」(篠田浩一郎『閉ざされた時空-ナチ強制収容所の文学』p250)。しかしこの段階の強制収容所はまだアウシュビッツのような場所ではなかった。ユダヤ人への迫害はこれから激化していく時期だった。しかし渡辺が先の文章を書いたときはどうだっただろうか。
「水晶の夜」という言葉をきいたことがあるだろうか。詩的な響きすらする言葉だ。けれどもその実態はまったくことなる。先の篠田の本から引用しよう。
「1938年11月8日、両親を収容所に奪われたユダヤ人の青年がパリのドイツ大使館で一等参事官をピストルで射殺するという事件がおこった。10日夜、ヒムラーが全ドイツ警察長官になったのにともないゲシュタポ隊長に任ぜられていたハイドリヒの指令によって、ドイツ全土にわたりユダヤ人の集団虐殺とユダヤ教会の放火が行われ、翌11日には1万人のユダヤ人がブーヘンヴァルト強制収容所に送られた」(前掲p268)。この夜のことを指して「水晶の夜」といわれる。その夜、ユダヤ人の教会や商店がドイツ全土で襲われ、破壊されたという。その時、砕けるガラスが飛び散る様子からこのように呼ばれるようになったとどこかで読んだことがある。その視界は襲われる側ではなく、襲う側からの視界だ。
ドイツのポーランド侵攻の1年前にはすでにこのような自体がドイツ国内で進行していた。フランス文学の研究者としてとしてヨーロッパにも知己があったであろう渡辺一夫は、ドイツで起こっている事態を知っていたに違いない。
一方日本国内では1925年に制定され、28年に改正された治安維持法による弾圧が頻発していた。35年には左翼運動がほぼ壊滅させられ、それ以降、矛先は大本教やひとのみち教団などの宗教者(岩波新書に『宗教弾圧を語る』というのがあり、くわしく証言を集めている)に、また自由主義者や民主主義者にも「アカの温床」として弾圧が拡大していく。ちなみに入試問題でも出題される哲学者の三木清は、治安維持法で逮捕され服役。終戦後1ヶ月以上たった9月26日に獄死している。
こうした歴史の激しい軋みの渦中に身をおき、渡辺一夫は「我々がなすべき唯一の仕事は、思想や倫理に対する信頼と愛の保持強化と、その拡大以上にはない」と述べている。その言葉はいったいどれほど激しく強い決意と覚悟に裏打ちされていたことだろうか。
そう思うと最後の「自らを巧みに卑下しながら赤い舌を出すことによって保身を全うせんとするのが我々の悪癖である。これに思いを致して慚愧感憤せざる時、われわれは畢竟するに泥水にただ育々と生きる『考えざる葦』以外のものではなくなることを覚悟せねばならない」という文章は重い。ずるく舌を出しながら保身することはある。しかしそれを容認するとき、すでに我々は人間たり得ない、ただの泥水の中の葦に過ぎない、と言っているのだ。
この時、私には渡辺一夫が、治安維持法が、その下での拷問や獄死がわが身に降りかかるならかかるが良い、私は例えそのような事態になろうとも人間であることを辞めないと覚悟し、その決意を明らかにしたのだと思う。
これは簡単なことではない。
この時代、暴力的な重圧の中、多くの知識人や文化人に「戦争協力」が要求された。そしてそれまでの立場や思想を放り出して一夜にして戦争翼賛する文章を書き始めた人びとが膨大に存在した。戦後そのことを恥じた人びとの中には「個人全集」に収められた自分の文章をこっそり修正するという姑息な対応をしている者までいるくらいだ。
そう思うとき、渡辺の文章の読み方、それへの接し方、対し方は根本的に変わってくるのではないか。歴史が軋み、その軋みの中に人間を飲み込み、すり潰していくようにして進んでいくなか、全身をさらし、自分の信じるところに立ち続けようとした者の言葉だ。
書かれた言葉はしょせん紙の上のインクの染みのようなものにすぎない。そこに書き手が何を込めようと、何を託そうとそれ以上のものにはなりようがない。そこに彼はいない。どこにも筆者は存在しない。行間に目をこらそうと、紙背に徹しようとそこにはなにもない。しかしそのような存在でしかあり得ない言葉に、何事かを捉えることがあるのならば、その言葉の中に人間の存在を感じとり、掴み出すことがあるのであれ、それは「読み手」の意志と、知識と論理力につよく立脚し放たれる想像力以外にはない。人間の歴史は、引き継ぐ者が引き受ける意志を持たない限り、そこで絶ち切られる。
言葉はそうしたものだと思う。襟を正して向かいたい。そして世界史、日本史、現代社会などなど、しっかり学びたい。
以下はちょっと再論のようになる。(石牟礼道子、渡辺一夫…http://parlabasso.dou-jin.com/Entry/2/)
歴史をどう捉えているかで読み方がかなり変わってくる。
ここで求められている歴史とは、何年に何があったというだけのものではない。その書き手がいったい何を見ていたのか、その視界を感じとることができるような、そういう歴史的な視野だ。ただ、その際、「何年に何があったなどということを覚えることに意味はない」ということは経験上、間違っていると思う。確かに数字だけでは意味がない。けれどもその数字は重要なヒントになる。
例えば東大のフランス文学者で森有正や大江健三郎の先生にあたる渡辺一夫の文章を、「oct1939」という日付入りで問題文に採用している(Z会 現代文のトレーニング記述編 所収)。どこかの入試問題だろうか。
そこで「一二の外国の指導者の行動が与える教訓は、思想の脆弱性に対する人間の自責を感じさせることは当然であるとしても」、とした上で、「我々がなすべき唯一の仕事は、思想や倫理に対する信頼と愛の保持強化と、その拡大以上にはないようにも思われる」と述べている。そしてプラトンの描くソクラテスに触れながら「ソクラテスの魂に心を撃たれぬ人間はもちろん人間ではないが、心を撃たれながらも自らを巧みに卑下しながら赤い舌を出すことによって保身を全うせんとするのが我々の悪癖である。これに思いを致して慚愧感憤せざる時、われわれは畢竟するに泥水にただ育々と生きる『考えざる葦』以外のものではなくなることを覚悟せねばならない」と結んだ。
いったい「一二の外国の指導者」とは誰だろう。その行動とは何だろう。「oct1939」。世界史・日本史を高校で学ぶということはこの文章が読めるようになると言うことであって欲しい。
第二次世界大戦は1941年12月の日米開戦で始まるのではなく、1939年7月のドイツによるポーランド侵攻からはじまる。その3ヶ月後に書かれた文章だ。ならばこの指導者はまぎれもなくヒトラーとムソリーニをさしているに違いない。行動とは第二次世界大戦の勃発、あるいはポーランドへの侵攻のことであることは間違いないだろう。
しかしそれだけではないかもしれない。
「ヒトラーがドイツ首相の地位についたのは1933年1月30日のことであったが、ダッハウの、最初の強制集中収容所の開設がミュンヘン知事によって新聞に公表されたのはそのわずか3ヶ月後、3月30日のことであった」(篠田浩一郎『閉ざされた時空-ナチ強制収容所の文学』p250)。しかしこの段階の強制収容所はまだアウシュビッツのような場所ではなかった。ユダヤ人への迫害はこれから激化していく時期だった。しかし渡辺が先の文章を書いたときはどうだっただろうか。
「水晶の夜」という言葉をきいたことがあるだろうか。詩的な響きすらする言葉だ。けれどもその実態はまったくことなる。先の篠田の本から引用しよう。
「1938年11月8日、両親を収容所に奪われたユダヤ人の青年がパリのドイツ大使館で一等参事官をピストルで射殺するという事件がおこった。10日夜、ヒムラーが全ドイツ警察長官になったのにともないゲシュタポ隊長に任ぜられていたハイドリヒの指令によって、ドイツ全土にわたりユダヤ人の集団虐殺とユダヤ教会の放火が行われ、翌11日には1万人のユダヤ人がブーヘンヴァルト強制収容所に送られた」(前掲p268)。この夜のことを指して「水晶の夜」といわれる。その夜、ユダヤ人の教会や商店がドイツ全土で襲われ、破壊されたという。その時、砕けるガラスが飛び散る様子からこのように呼ばれるようになったとどこかで読んだことがある。その視界は襲われる側ではなく、襲う側からの視界だ。
ドイツのポーランド侵攻の1年前にはすでにこのような自体がドイツ国内で進行していた。フランス文学の研究者としてとしてヨーロッパにも知己があったであろう渡辺一夫は、ドイツで起こっている事態を知っていたに違いない。
一方日本国内では1925年に制定され、28年に改正された治安維持法による弾圧が頻発していた。35年には左翼運動がほぼ壊滅させられ、それ以降、矛先は大本教やひとのみち教団などの宗教者(岩波新書に『宗教弾圧を語る』というのがあり、くわしく証言を集めている)に、また自由主義者や民主主義者にも「アカの温床」として弾圧が拡大していく。ちなみに入試問題でも出題される哲学者の三木清は、治安維持法で逮捕され服役。終戦後1ヶ月以上たった9月26日に獄死している。
こうした歴史の激しい軋みの渦中に身をおき、渡辺一夫は「我々がなすべき唯一の仕事は、思想や倫理に対する信頼と愛の保持強化と、その拡大以上にはない」と述べている。その言葉はいったいどれほど激しく強い決意と覚悟に裏打ちされていたことだろうか。
そう思うと最後の「自らを巧みに卑下しながら赤い舌を出すことによって保身を全うせんとするのが我々の悪癖である。これに思いを致して慚愧感憤せざる時、われわれは畢竟するに泥水にただ育々と生きる『考えざる葦』以外のものではなくなることを覚悟せねばならない」という文章は重い。ずるく舌を出しながら保身することはある。しかしそれを容認するとき、すでに我々は人間たり得ない、ただの泥水の中の葦に過ぎない、と言っているのだ。
この時、私には渡辺一夫が、治安維持法が、その下での拷問や獄死がわが身に降りかかるならかかるが良い、私は例えそのような事態になろうとも人間であることを辞めないと覚悟し、その決意を明らかにしたのだと思う。
これは簡単なことではない。
この時代、暴力的な重圧の中、多くの知識人や文化人に「戦争協力」が要求された。そしてそれまでの立場や思想を放り出して一夜にして戦争翼賛する文章を書き始めた人びとが膨大に存在した。戦後そのことを恥じた人びとの中には「個人全集」に収められた自分の文章をこっそり修正するという姑息な対応をしている者までいるくらいだ。
そう思うとき、渡辺の文章の読み方、それへの接し方、対し方は根本的に変わってくるのではないか。歴史が軋み、その軋みの中に人間を飲み込み、すり潰していくようにして進んでいくなか、全身をさらし、自分の信じるところに立ち続けようとした者の言葉だ。
書かれた言葉はしょせん紙の上のインクの染みのようなものにすぎない。そこに書き手が何を込めようと、何を託そうとそれ以上のものにはなりようがない。そこに彼はいない。どこにも筆者は存在しない。行間に目をこらそうと、紙背に徹しようとそこにはなにもない。しかしそのような存在でしかあり得ない言葉に、何事かを捉えることがあるのならば、その言葉の中に人間の存在を感じとり、掴み出すことがあるのであれ、それは「読み手」の意志と、知識と論理力につよく立脚し放たれる想像力以外にはない。人間の歴史は、引き継ぐ者が引き受ける意志を持たない限り、そこで絶ち切られる。
言葉はそうしたものだと思う。襟を正して向かいたい。そして世界史、日本史、現代社会などなど、しっかり学びたい。