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since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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 内田のこの小著の目次は前回書いた。その第1章「読むこと」と「聴くこと」と。
この章はもともと一つの講演からなっているが、まず「はじめに――読書の問題性」からはじまり、§1読みの構造、§2読み深めの諸相、§3聴くということ、なっている。読むところからはじまって聴くことで終わる。
(いかは つづきはこちら へ)
 

 最初から横道にそれてしまうが、最近、この「聴く」という言葉を良く目にする。例えば鷲田清一の『「聴く」ことの力――臨床哲学試論』はそのままのタイトルだし、こちらは「聞く」だが、小林秀雄の『弁明』のなかに「ガリレオもニュートンも、天体や光が語りかける言葉を直に聞くことから始めた。聞き洩らした言葉は、後世が聞けばよい、そういう仕事をしたので、これが学問の正統派なら、近代の人間科学は、発想上倒錯していたと言えよう。」と述べていた。そして内田義彦も章の見出しにその言葉をおいた。1985年にそういう賞を設けたわけだ。
内田義彦の本を初めて読んだのはかなり以前のことになる。どのくらい以前のことなのかは秘密である。かなり以前とだけしか明らかにできない。まぁ、そういうこともある。
その時も当然、「読むこと」と「聴くこと」と、という言葉は目に入っていたはずなのだが、今回、この稿を起こそうとしはじめるまで、ほとんど意識していなかった。いやこの稿を起こし初めても意識的には捉えられていなかったかもしれない。少し鷲田清一の先述の本を読み、急に「聴く」(あるいは聞く)という言葉が目につきだした。きっといろいろなことを読み落としてきたに違いない。
実はこれは、内田の第1章の内容に重なることでもある。


第1章で彼は、読書会のあり方と言うことを入り口に(これが講演のテーマになっているのだが)、まず「読みの構造」として、二通りの読み方がある、とのべ、そこから「古典」というものを定義する。読むと言うことがどういうことなのかを論じ、そこから深い読み込みと言うことがどういうことなのかを述べていく。

誰もが本を読む。まぁ読まない人もいる。けれども高校生なら何かは読む。教科書も参考書も一行も読まない、という例は少なくとも今までは見たことがない。何か読む。

呼吸のように、歩行のように、当たり前のように読む。
思うけれども、だから読むことは難しいのだと思う。

呼吸法というものがある。これは武術やスポーツなどでは欠かせない。そして奥が深い。歩行も同じだ。美しく歩くことはとてもとても難しい。誰だったか、ずっと昔、誰かの言葉で「ダンサーとは喧嘩をするな」というのがあった。バレリーナだったかもしれない。
いずれにしても歩行や呼吸など、あたり前に行われていることを洗練することは、とても難しい。読むこと、あるいは現代文の読解の本当の難しさはこのあたりにあるのだと思う。だから逆に「当たり前に読めない人」の方が、独特の読みの深さを獲得していくことがある。
例えば大江健三郎が作家として自己を確立することと、彼が四国の山の中の深い森に包まれたところから東京に出てきたときの言葉に対する違和感。それらは非常に強く関わっていると思う。言葉への違和感を、彼は書く言葉を創り上げることで乗り越えていこうとしたのだろうと思う。つまり彼にとって、言葉は当たり前のものではなかったのではないか、と思う。


内田はそういう「読むこと」の内部に分け入り、その構造を捉えようとするのだが、その前にまず読むと言うことを二つに分ける。「情報として読む」ことと「古典として読む」と言うこと。この二つ。
情報として読むと言うことは、例えば情報誌を読むとか、ニュースを読むとか、そういうことを指す。そこに書かれている大量の情報を受けるとるために読むことだ。
けれども、それとは少しちがう「読み方」についてのべ始める。

 
「新しい情報を得るという意味では役立たないかもしれないが、情報を見る目の構造を変え、情報の受け取り方、何がそもそも有益な情報か、有益なるものの考え方、求め方を――生き方をも含めて――変える。変えるといって悪ければ新しくする。新奇な情報は得られなくても、古くから知っていたはずのことがにわかに新鮮な風景として身を囲み、せまってくる、というような『読み』があるわけです。哲学者は万人の(すでに)知ることを語る、といいますね。古くからの情報を、目のも少し奥のところで受け取ることによって、自分の目の構造を変え、いままで目に映っていた情報の受け取り方、つまりはいきかたがかわる。そういうふうに読む読み方を『古典として読む』という名に一括しました。」(Ⅰ『読むこと』と『聴くこと』と p12~13)

実はこの読み方は社会科学の、いや社会科学にとどまらないけれども、およそ学ぶと言うことに関わっての二つのあり方に直結している。
 そのことを端的に次のように述べる。

 
 「ウェーバーについて詳しく知ったって、ウェーバーのように考える考え方、なるほどさすがにウェーバーを長年読んできた人だけあってよく見えるものだなぁ、ウェーバー学も悪くないと思わせる見方を身につけなければ仕方がない。」(Ⅰ「読むこと」と「聴くこと」と p3)

(※ウェーバー: Max Weber ドイツの社会学者。ドイツの、というより社会学の巨大な潮流を創り上げた巨人の一人。大学で社会学や社会科学を学ぶとき、Weberを避けて通ることはかなり難しいと思う。近代の過程をその精神のあり方とあわせて捉えた『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』など。)

 
 これは高校の勉強、受験勉強でも同じことだ。問題集を解く、参考書を読む。同じことをやっても成果は巨大なまでに異なる。言いかえればこういうことだろう。「解答について詳しく知ったって、解答の筆者のように考える考え方、ものの見方を身につけ負ければ仕方ない」。物理の問題の解答は知っても、物理的にものを捉え、考えられるようにならなければ仕方ない。…私は一応、物理学科でした。


内田はそのような「考え方、見方」を身につけるために読むと言うことを捉える。それを「情報を受ける目の構造を変える」と言う。目の構造。言うまでもなく、医学的・生物学的な意味での目の構造ではない。
同じ本を読む。目の作りも別段かわるわけではない。片目をつむって読むわけでもない。けれども受け取る内容が変わる。そこに意味を見いだす。
読むことに即して、次のように述べている。

 
古典は第一に、一読明快じゃない。二度読めば変わる。むしろ、一年後に読んで、あの時はこう読んだけれど浅はかだった、本当はこう書いてあったんだなぁというふうにして読めてくるような内容をもっていなければ、古典とは言えないでしょう。『本当はこうだったんだなあ』と読めるところにこそ古典本来の味があり意味がある。一読不明快は古典の運命ではなく目的そのものです
文章は同じなんですよ。A氏の本の何ページというのはまったく同じで、その同じものの読みがかわる。読み手である自分の成長とともに違ってくる。古典の名に価する古典であるほど、その違いは大きいですね。古典がそうだというよりも、そうであるのが古典だと言いかえておきます。」(Ⅰ「読むこと」と「聴くこと」と p20~21)

「古典の場合は、人によって受け取り方、読みの内容がちがう。いいかげんに読んでいるわけじゃない。それぞれ正確を期してていねいに読む。ていねいに読んで、しかも理解がちがってくる。むしろ、ていねいに読めば読むほど『読まれた』中身は個性的になってくる面があるんです。同じ作家に傾倒して、しかもその作家の甲という作品にこの作家の粋があるという点で共通の理解があるかに見える人についても、よく聴いてみると、何のゆえに甲作品をとるか、その理由というか根拠、要するに本文の解釈つまり受け取り方は、微妙にちがっている。微妙という形で全然違っている場合も、案外多いんです。要するに理解は一義的ではない。」(Ⅰ「読むこと」と「聴くこと」と p23~24)

ではどのようにして、読みを深めていくのか。
(以下、続く)
 


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