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since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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  同じ人は一人もいない。同じ感情も一つもない。けれども、それは同じ言葉で語られ以外に語ることができない。

ときどき、そのような言葉を「暴力的だ」と感じることがある。
他に言いようがない。言いようがないけれども、その言葉はたった一つの想いを表すことができないのかもしれない。けれども、そうした言葉にむりやりねじ込むようにして何事かを押し込め、放つほかないことがある。
(以下は つづきはこちら へ)



小林秀雄によると「ユンク(小林はユングではなく、ユンクと表記している)の仕事は、人間の心の深さと心理学という学問の若さ、浅さとに関する痛切な体験の上に立っている。この体験の味いは、彼の著作の到る処に顔を出していて、その分析は、賢者のような、詩人のような一種言い難いニュアンスを帯びている」(『弁明』)という。

これは恐らく心理学の言葉と人間の心の深さについてだけではない。誰もが折に触れて経験することだろう。誰にも言葉で語り尽くすことができない何事かがきっとある。そこでもがきながら、言葉を探し、そして言葉が立ち上がり、世界に解き放つ。その時、自分の中の何事かも一緒に解き放たれるように思えることがある。前田愛はそうした言葉を指して、「呼びかける言葉」と言った。それは同時に、人間と人間との、人間と世界との穏やかな円環を描く、そうしたものでもあるという。

このとき、言葉は暴力的ではなくなり、世界と人間の豊かさに触れる何かになる。けれども一方で、その言葉にはその人そのものが濃密にはり付いているから誰にでも届く言葉ではないかもしれない。


こうして言葉をめぐって多くの人がもがいてきた。時に言葉を拒絶し、時に言葉に拒絶されてきた。そして幸運にも言葉と出会うことができたとき、世界は一つの新しい形、新しい相貌をみせてくれる。
きっとこのことには一人の人間のかけがえのなさが込められている。そのかけがえのなさは、字義どおりに唯一のものとしてのかけがえのなさだろうと思う。そしてそれは語る人間のかけがえのなさいを、語られる人間のかけがえのなさを、その両方を含み込んでいるのだろう。


だから言葉をめぐる考察は、つねに人間をめぐる考察となって出発点に立ち戻らざるを得ない。けれどもそれはきっと否定的なことではない。そこには豊かに開かれた人間と人間との関わりが、人間と世界との関わりが遠くにかいま見えるかもしれないからだ。



長く更新できませんでした。
徐々に書き始めます。 
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