since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
パウル・ツェランの言葉について書いた。ツェランには激しく詩に託するものがあり、詩人の金時鍾をして驚嘆させたと書いた。以下がそのもとになるものだ。
まずはパウル・ツェランの言葉が引用されている。
「詩は言葉が現われるひとつの姿なのですから、また、したがってその本質からして対話的なものなのですから、詩はひとつの投壜通信であるのかもしれません。どこかに、どこかの岸に、ひょっとすれば心の岸に打ち寄せられるかもしれないという信念――必ずしもいつも確かな希望をもってではありませんが――のもとに、波に委ねられる投壜通信です。詩は、このようなあり方においてもまた、途上にあるのです。つまり詩は何かにむかって進んでいるのです。何にむかっているのでしょう。開かれている何か、占有しうる何か、ひょっとすれば語りかける『あなた』。語りかけうる現実にむかってです」。
私(以下の3つの段落、金時鍾 引用者注)がまず驚かされるのは詩はその本質からして対話的なものだとする、ツェランの詩に寄せる思い入れの深さである。世界が終るかのようなこの世の生き地獄をまざまざと眼に焼きつけた人の言葉だけに、それは人間としての希求を精一杯ふりしぼっている、心の奥の叫びのようにもひびいてくるのだ。詩を人生のよすがとしている私でさえ、ありていに言って詩はむしろ生の痕跡、洞窟の岩肌にひっかき傷をとどめるような、すぐれて個的な所為だと決めこんでいた。
これは多分に日本語で詩を書くことの私の無力感、詩は軽んじられ詩人は疎まれるものと相場がきまっている日本で、それでも詩にかかずらっていねばならない己れの孤絶めいたもどかしさが生みだした、一種の諦念だったともいえそうな気がする。いずれにせよ詩がかかえる“対話”など、私の認識にはない方法意識だった。
ましてや詩が、何かに向かって進んでいる託された言葉の漂いであり、在り方自体がすでに物事の途上であるとは、なんと鮮かな詩の可能性への賛歌だろう。これだけの視座を、自己の視野に収めた詩人を私は外に知らない。
ツェランは海難事故にあった昔の船乗りたちが、自分の思いを込めて手紙をビンに詰め海にながしたように、詩とその言葉に思いのすべてを託した。ビンに詰め込み、海に流して、一体どのくらいの確率で人の手に渡るだろう。けれどもその極微な確率も彼には、彼らには夢のような可能性だった。夢のようなと自覚しながら、それは可能性だった。そしてその可能性こそが人間を生きながらえさせるのだろう。あるいは人間の何かを、その核に静かに存在している魂のようなものを保持させるのだろう。
金時鍾はそれを「鮮やかな詩の可能性への讃歌」だという。確かにそうかもしれない。
しかし本当にそうだろうか。同じ言葉で語るにしても、私にはまったく違うニュアンスを感じられる。
ツェランはこうも言っている。
「様々な喪失のただ中で、手に届くものとして、近くにあるものとして、失われず残ったものは言葉だけでした。言葉は失われることなく残ったのでした。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉は自分自身の答えのないことのなかを、恐ろしい沈黙のなかを、死をもたらす千の闇のなかを抜けてこなければなりませんでした。言葉はそれらを抜けてきました、しかし言葉はこれらの出来事のなかを抜けていったのです。抜けていき、再び明るみに出ることができました、すべての出来事に『豊かにされて』。あの歳月、そしてその後の歳月のなかで、私はこの言葉で詩を書こうとしました。」
ナチス支配下に生きたユダヤ人として、彼にはもう言葉しか残されていなかったのではないのだろうか。他に何もなく、彼には本当に言葉しかなかったのではないか。だからその言葉に託されたものは、本来言葉にならない、失われた存在であり、いのちであり、時間であり、過去であり、未来であり、そうした生きた、しかし生き続けることができなかった人間のすべてだったのではないだろうか。だから彼の詩は難解になり、言葉を破壊し、解体するようになっていくのではないのだろうか。言葉にすることができないものを、そのすべてを言葉に託するしかないとき、言葉は言葉以外の何ものかにならざるを得ないのではないか。
海に流されるビンの中に詰め込まれるのはただの言葉なのではない。
生きた自分の存在であり、その歴史であり、家族や愛するものへの限りない想いであり、希望であり、絶望であり、そうしたすべてなのだと思う。生きられたすべてをそこに封じ込め、そして極微の可能性にむかって送り出す。
だから、もしツェランの言葉が「鮮やかな詩の可能性への讃歌」に思われるのであれば、それはきっと、絶望の底から、その時代と人間の暗黒の闇から、他に希望を託する以外にない微かな光へ、彼が全力で精一杯、力一杯、手を伸ばし、何かをつなごうとしている、その姿なのだと思う。届かないと、それは夢なのだと分かりながら、そこに向かって言葉を発するしかなかった詩人の姿があるのだと思う。
まずはパウル・ツェランの言葉が引用されている。
「詩は言葉が現われるひとつの姿なのですから、また、したがってその本質からして対話的なものなのですから、詩はひとつの投壜通信であるのかもしれません。どこかに、どこかの岸に、ひょっとすれば心の岸に打ち寄せられるかもしれないという信念――必ずしもいつも確かな希望をもってではありませんが――のもとに、波に委ねられる投壜通信です。詩は、このようなあり方においてもまた、途上にあるのです。つまり詩は何かにむかって進んでいるのです。何にむかっているのでしょう。開かれている何か、占有しうる何か、ひょっとすれば語りかける『あなた』。語りかけうる現実にむかってです」。
私(以下の3つの段落、金時鍾 引用者注)がまず驚かされるのは詩はその本質からして対話的なものだとする、ツェランの詩に寄せる思い入れの深さである。世界が終るかのようなこの世の生き地獄をまざまざと眼に焼きつけた人の言葉だけに、それは人間としての希求を精一杯ふりしぼっている、心の奥の叫びのようにもひびいてくるのだ。詩を人生のよすがとしている私でさえ、ありていに言って詩はむしろ生の痕跡、洞窟の岩肌にひっかき傷をとどめるような、すぐれて個的な所為だと決めこんでいた。
これは多分に日本語で詩を書くことの私の無力感、詩は軽んじられ詩人は疎まれるものと相場がきまっている日本で、それでも詩にかかずらっていねばならない己れの孤絶めいたもどかしさが生みだした、一種の諦念だったともいえそうな気がする。いずれにせよ詩がかかえる“対話”など、私の認識にはない方法意識だった。
ましてや詩が、何かに向かって進んでいる託された言葉の漂いであり、在り方自体がすでに物事の途上であるとは、なんと鮮かな詩の可能性への賛歌だろう。これだけの視座を、自己の視野に収めた詩人を私は外に知らない。
(金時鍾 岩波書店『思想』2000年1号 思想の言葉)
ツェランは海難事故にあった昔の船乗りたちが、自分の思いを込めて手紙をビンに詰め海にながしたように、詩とその言葉に思いのすべてを託した。ビンに詰め込み、海に流して、一体どのくらいの確率で人の手に渡るだろう。けれどもその極微な確率も彼には、彼らには夢のような可能性だった。夢のようなと自覚しながら、それは可能性だった。そしてその可能性こそが人間を生きながらえさせるのだろう。あるいは人間の何かを、その核に静かに存在している魂のようなものを保持させるのだろう。
金時鍾はそれを「鮮やかな詩の可能性への讃歌」だという。確かにそうかもしれない。
しかし本当にそうだろうか。同じ言葉で語るにしても、私にはまったく違うニュアンスを感じられる。
ツェランはこうも言っている。
「様々な喪失のただ中で、手に届くものとして、近くにあるものとして、失われず残ったものは言葉だけでした。言葉は失われることなく残ったのでした。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉は自分自身の答えのないことのなかを、恐ろしい沈黙のなかを、死をもたらす千の闇のなかを抜けてこなければなりませんでした。言葉はそれらを抜けてきました、しかし言葉はこれらの出来事のなかを抜けていったのです。抜けていき、再び明るみに出ることができました、すべての出来事に『豊かにされて』。あの歳月、そしてその後の歳月のなかで、私はこの言葉で詩を書こうとしました。」
(パウル・ツェラン全詩集Ⅲ 中村朝子訳 青土社 p257)
ナチス支配下に生きたユダヤ人として、彼にはもう言葉しか残されていなかったのではないのだろうか。他に何もなく、彼には本当に言葉しかなかったのではないか。だからその言葉に託されたものは、本来言葉にならない、失われた存在であり、いのちであり、時間であり、過去であり、未来であり、そうした生きた、しかし生き続けることができなかった人間のすべてだったのではないだろうか。だから彼の詩は難解になり、言葉を破壊し、解体するようになっていくのではないのだろうか。言葉にすることができないものを、そのすべてを言葉に託するしかないとき、言葉は言葉以外の何ものかにならざるを得ないのではないか。
海に流されるビンの中に詰め込まれるのはただの言葉なのではない。
生きた自分の存在であり、その歴史であり、家族や愛するものへの限りない想いであり、希望であり、絶望であり、そうしたすべてなのだと思う。生きられたすべてをそこに封じ込め、そして極微の可能性にむかって送り出す。
だから、もしツェランの言葉が「鮮やかな詩の可能性への讃歌」に思われるのであれば、それはきっと、絶望の底から、その時代と人間の暗黒の闇から、他に希望を託する以外にない微かな光へ、彼が全力で精一杯、力一杯、手を伸ばし、何かをつなごうとしている、その姿なのだと思う。届かないと、それは夢なのだと分かりながら、そこに向かって言葉を発するしかなかった詩人の姿があるのだと思う。
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パウル・ツェランに激しく心を惹かれている。もうすぐ詩集と論集がくる。
岡真理の文章を受けて慶応大学の文学部が小論文を出している。そこで小論文では「岡真理の立場とアドルノの立場を対照的に…」としている。岡真理の文章は「飢えたアフリカの子どもたちにとって文学は何ができるか」というサルトルの問いに対しながら、戦争と文学の関係を、その文学の力を信じる側に立って書かれたものだ。いやそれは実は根源的に人間を信じる側に立って書かれたものだろうと思う。人間はパンだけで生きているわけではない。人間は平和だけで生きているわけではない。あらゆる状況の中で人間は人間としての矜恃をもち、生き続けている。そうした人間がいる。聖書の言葉を思い出す。
「肉体を滅ぼすことができても魂を滅ぼすことができないものを恐れるな。」
私を支えていた言葉だった。
そして文学はその「魂」にかかわることなのだと思う。いや文学だけではない。社会学者の見田宗介も自らの仕事を「魂のある仕事だ」といっていた(『社会学入門』岩波新書p14)。
慶応大の2007年の問題は、(2)でアドルノの言葉(「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である」という)と筆者の立場を対照させ、空爆にさらされた中で執筆するパレスチナ人作家・ナスラッラーの文章を引き、その存在を捉え、戦争と文学が「対義」であることについて小論文を書かせるものになっている。アウシュビッツの後でも詩は、文学は書かれるし、書かれなくてはいけないのだという慶応大学文学部のメッセージだろう。強いメッセージだ。
ナスラッラーは確かに「アウシュビッツの後で小説を」書いている。詩ではないが。
それは確かにそうだ。
しかし、と思う。ユダヤ系ドイツ人の詩人・パウル・ツェランもまたアドルノの言葉への根源的な応答であると思われていたのではないか。両親が強制連行される状況を目の当たりにし、そこから身をかわした自己を呪っていた。両親は収容所で死んだ。彼自身もまた労働収容所に入れられた。
共産主義の空気を嫌い、1948年にフランスに亡命。現代ドイツを代表する詩人となった。しかしツェランは1970年4月20日、セーヌで入水と思われる死を遂げた。49歳。
詩の可能性に激しく託すものがあったはずだ。そのことを告げる金時鍾の文章がある(岩波書店 「思想」2000年1号の「思想の言葉」)。それは金時鍾をして驚嘆させるものだった。
その彼の最後の視界を捉えたい。その言葉を捉えたい。その射程を捉え、感じとり、そして私もまたそこに連なりたいと思う。
「アウシュビッツ」から生還したプリモ・レビィもまた自死した。1987年4月11日。篠田浩一郎によれば(『閉ざされた時空』白水社)、彼はいわば半身をアウシュビッツにとらわれ続けていた。いや正確ではない。意識の半ばを。一日の半分を。夜を、夢を。夜ごと彼はアウシュビッツに連れ去られた。
パウル・ツェランもレビィも、「アウシュビッツの後」と言えるのか?むしろ彼らは一貫してアウシュビッツの中で書き続けていたのではないか。彼らは根源的なところで「アウシュビッツから帰還」できなかったのではないだろうか。それは『ショアー』のスレブニクが、「精神的死者」としてしか絶滅収容所のヘウムノから帰還することができなかったことと同じなのではないだろうか。
ナスラッラーは、レビィやツェランが越えられなかった壁を突き抜けたのだろうか。
巨大な、本当に巨大な暴力と壁に直面し続けた人間が、その壁にまっすぐに、垂直にぶつかり続けた人間が何を見て、何を感じたのか。それを見届けたいと思う。それはどれほどの困難と、どれほどの格闘があっても、越えて行かなくてはいけない壁なのだと思うからだ。彼らがもし越えることができなかったのであれば、私にできるわけではないにしても、誰かがそれを引き継ぎ、誰かが越えなくてはならないと思うからだ。
私は人間を信じようと思う。その力をいまは信じられる気がする。その力を感じることができるような気がする。
戦争も、強制収容所も、それらは自然の猛威などではない。人間が生み出したものだ。ならば、それを越える力も人間の中に宿っているのではないか。それがいままだ眠り込まされているにしても。
岡真理の文章を受けて慶応大学の文学部が小論文を出している。そこで小論文では「岡真理の立場とアドルノの立場を対照的に…」としている。岡真理の文章は「飢えたアフリカの子どもたちにとって文学は何ができるか」というサルトルの問いに対しながら、戦争と文学の関係を、その文学の力を信じる側に立って書かれたものだ。いやそれは実は根源的に人間を信じる側に立って書かれたものだろうと思う。人間はパンだけで生きているわけではない。人間は平和だけで生きているわけではない。あらゆる状況の中で人間は人間としての矜恃をもち、生き続けている。そうした人間がいる。聖書の言葉を思い出す。
「肉体を滅ぼすことができても魂を滅ぼすことができないものを恐れるな。」
私を支えていた言葉だった。
そして文学はその「魂」にかかわることなのだと思う。いや文学だけではない。社会学者の見田宗介も自らの仕事を「魂のある仕事だ」といっていた(『社会学入門』岩波新書p14)。
慶応大の2007年の問題は、(2)でアドルノの言葉(「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である」という)と筆者の立場を対照させ、空爆にさらされた中で執筆するパレスチナ人作家・ナスラッラーの文章を引き、その存在を捉え、戦争と文学が「対義」であることについて小論文を書かせるものになっている。アウシュビッツの後でも詩は、文学は書かれるし、書かれなくてはいけないのだという慶応大学文学部のメッセージだろう。強いメッセージだ。
ナスラッラーは確かに「アウシュビッツの後で小説を」書いている。詩ではないが。
それは確かにそうだ。
しかし、と思う。ユダヤ系ドイツ人の詩人・パウル・ツェランもまたアドルノの言葉への根源的な応答であると思われていたのではないか。両親が強制連行される状況を目の当たりにし、そこから身をかわした自己を呪っていた。両親は収容所で死んだ。彼自身もまた労働収容所に入れられた。
共産主義の空気を嫌い、1948年にフランスに亡命。現代ドイツを代表する詩人となった。しかしツェランは1970年4月20日、セーヌで入水と思われる死を遂げた。49歳。
詩の可能性に激しく託すものがあったはずだ。そのことを告げる金時鍾の文章がある(岩波書店 「思想」2000年1号の「思想の言葉」)。それは金時鍾をして驚嘆させるものだった。
その彼の最後の視界を捉えたい。その言葉を捉えたい。その射程を捉え、感じとり、そして私もまたそこに連なりたいと思う。
「アウシュビッツ」から生還したプリモ・レビィもまた自死した。1987年4月11日。篠田浩一郎によれば(『閉ざされた時空』白水社)、彼はいわば半身をアウシュビッツにとらわれ続けていた。いや正確ではない。意識の半ばを。一日の半分を。夜を、夢を。夜ごと彼はアウシュビッツに連れ去られた。
パウル・ツェランもレビィも、「アウシュビッツの後」と言えるのか?むしろ彼らは一貫してアウシュビッツの中で書き続けていたのではないか。彼らは根源的なところで「アウシュビッツから帰還」できなかったのではないだろうか。それは『ショアー』のスレブニクが、「精神的死者」としてしか絶滅収容所のヘウムノから帰還することができなかったことと同じなのではないだろうか。
ナスラッラーは、レビィやツェランが越えられなかった壁を突き抜けたのだろうか。
巨大な、本当に巨大な暴力と壁に直面し続けた人間が、その壁にまっすぐに、垂直にぶつかり続けた人間が何を見て、何を感じたのか。それを見届けたいと思う。それはどれほどの困難と、どれほどの格闘があっても、越えて行かなくてはいけない壁なのだと思うからだ。彼らがもし越えることができなかったのであれば、私にできるわけではないにしても、誰かがそれを引き継ぎ、誰かが越えなくてはならないと思うからだ。
私は人間を信じようと思う。その力をいまは信じられる気がする。その力を感じることができるような気がする。
戦争も、強制収容所も、それらは自然の猛威などではない。人間が生み出したものだ。ならば、それを越える力も人間の中に宿っているのではないか。それがいままだ眠り込まされているにしても。
★原田正純編著 『水俣学講義』(日本評論社)読了。
熊本学園大学での講義録。後期の単位になっているようだ。2004年に出版されている。水俣にかかわった多くの人々、当該の患者、追い続けた写真家、ジャーナリスト、裁判の理論を構築した法学者、海洋生物学者、チッソの労働組合の委員長、そして医者として原田氏。
いま『水俣学講義』は第4集まででている。2008年に出版されている。まだ原田氏はこの講座を続けているのだろう。
いまもまだ水俣は続いている。水俣病が解決してない。しかしそれだけではない。例えば原田氏はカナダでの同様の有機水銀による環境汚染と「水俣病」の発病を、カナダ政府が「承認」していないことを自分たちの責任だという。なぜならカナダ政府が承認を拒否した根拠が、日本国内での水俣病の認定基準の弱さにあるからだ。水俣病は水俣病以前には存在していない。有機水銀中毒の症例は報告されているが、それは直接それを取り扱っていた労働者の発生した中毒で、環境が丸ごと汚染され、食物連鎖を通して魚介類に水銀が濃縮され、そしてまずは猫や海鳥に、そして農民や漁民のように環境と寄り添って生きている人々に襲いかかってきたものとしては、初めてのケースだからだ。
だから当初、認定基準も何もなかった。病因も何も分からなかった。どの患者が水俣病なのかも判断できなかった。そうした中で行政サイドが作り上げた患者本位ではない、むしろ、認定患者を減らすための認定基準生まれ、それを自分たちが覆せていないから外国での同様の症例で患者認定がされない事態が発生していると原田氏は考えている。だから何も終わっていない。むしろそれは全世界に拡大されている。カナダで、アメリカで、フィンランドで、アマゾンで、中国で、アフリカのビクトリア湖で。
さらに問題は日本に戻ってくる。以下、少し長くなるが引用する。
「いまはクジラやフカやイルカの水銀値が高いんです。……フィンランドのグループが7年から14年間、赤ちゃんが生まれたときから、お母さんの髪の毛と赤ちゃんをずっとチェックしたわけです。
つまり微細な水銀が胎内の赤ちゃんにどのような影響を及ぼすかと言う調査を、14年間続けている。その結果、運動機能はほとんど障害がない。つまり、水俣で私たちが胎児性と言っているような患者は一人も出てこなかった。しかし、細かく見ると、注意力、言語理解、あるいは記憶力に母親の頭髪水銀が10ppm前後で有意の差があるといったことが報告されております。世界はいまや、水俣みたいなレベルの話ではないんですね。微量の水銀が、特にお腹の中の赤ちゃんにどういう影響を及ぼすかということを、世界中の人たちが研究しています。それなのに日本は、いまだに症状が三つあったら水俣病というけれども、症状二つじゃいかんとか、そういう議論をしてるんです。本当に恥ずかしい。一番進まなければいけなかった日本の水銀研究が一番遅れています。……日本では、2,3年前、重症の胎児性の患者さんが見つかっています。」(p280)
最近、どこかで素敵な言葉を目にした。「人間は喜ぶために生まれてきた。」
そして2,3日前、「水俣学講義」を読んでいてこんな言葉が目に入ってきた。
「おばあちゃんが言うには、この子は人がくると嬉しいんだ、外も好きなんだ。特に天気が良い日に海に連れて行くと、本当に喜ぶ。ところが、喜ぶと身体が突っ張り出す。それで、あわてて家に入る。お医者さんたちは『この子は耳も聞こえず、目も見えず、何も分からない』というけれど、この子は喜んでいるんだと。私もそう思いました。生まれつき田中敏昌君の魂は土牢のなかに入れられていて、かすかに光が射すとそれに応えようとするんですね。そうすると今度は突っ張りが起きるわけでしょう。喜ぶことさえできないような身体で生まれてきた。本当にこんなことがあっていいんだろうかと思いました。」(宮澤信雄 『水俣学講義』p188)
私たちが生きている世界のことだ。今、生きている世界のことだ。
※ この田中君は胎児性の水俣病患者です。つまり胎児のときに有機水銀に侵された。
けれども胎児性の患者は非常に長い期間、水俣病だと認定されませんでした。原田氏は反省を込めて、述べています。もともと医学では胎盤は毒物を通さないと教わってきた。そう確信してきた。事実、無機水銀は胎盤を通らないし脳にも入っていかない。けれども有機水銀は胎盤を通り、脳も侵す。それを患者のお母さんたちから激しく指摘され、学んだそうです。「お父さんも、上の子も水俣病で、私もいっぱい魚を食べてきて、この子だけどうして違うなどと言うことがあるんだ」と。
水俣病の発症は第一号の患者が見つかる遙か以前にさかのぼります。その患者たちは当然、病院にいっていました。医者の目の前に水俣病患者がいた。けれども、それはこれまでになかった病気だと認識されず、しかもある地域に集中して発生しているにもかかわらず、それと認識されず、長い時間が経過してしまいました。
犬養道子の『見ないことが罪』という言葉を引用したけれど、「見えないこと」も罪なのかも知れない。
熊本学園大学での講義録。後期の単位になっているようだ。2004年に出版されている。水俣にかかわった多くの人々、当該の患者、追い続けた写真家、ジャーナリスト、裁判の理論を構築した法学者、海洋生物学者、チッソの労働組合の委員長、そして医者として原田氏。
いま『水俣学講義』は第4集まででている。2008年に出版されている。まだ原田氏はこの講座を続けているのだろう。
いまもまだ水俣は続いている。水俣病が解決してない。しかしそれだけではない。例えば原田氏はカナダでの同様の有機水銀による環境汚染と「水俣病」の発病を、カナダ政府が「承認」していないことを自分たちの責任だという。なぜならカナダ政府が承認を拒否した根拠が、日本国内での水俣病の認定基準の弱さにあるからだ。水俣病は水俣病以前には存在していない。有機水銀中毒の症例は報告されているが、それは直接それを取り扱っていた労働者の発生した中毒で、環境が丸ごと汚染され、食物連鎖を通して魚介類に水銀が濃縮され、そしてまずは猫や海鳥に、そして農民や漁民のように環境と寄り添って生きている人々に襲いかかってきたものとしては、初めてのケースだからだ。
だから当初、認定基準も何もなかった。病因も何も分からなかった。どの患者が水俣病なのかも判断できなかった。そうした中で行政サイドが作り上げた患者本位ではない、むしろ、認定患者を減らすための認定基準生まれ、それを自分たちが覆せていないから外国での同様の症例で患者認定がされない事態が発生していると原田氏は考えている。だから何も終わっていない。むしろそれは全世界に拡大されている。カナダで、アメリカで、フィンランドで、アマゾンで、中国で、アフリカのビクトリア湖で。
さらに問題は日本に戻ってくる。以下、少し長くなるが引用する。
「いまはクジラやフカやイルカの水銀値が高いんです。……フィンランドのグループが7年から14年間、赤ちゃんが生まれたときから、お母さんの髪の毛と赤ちゃんをずっとチェックしたわけです。
つまり微細な水銀が胎内の赤ちゃんにどのような影響を及ぼすかと言う調査を、14年間続けている。その結果、運動機能はほとんど障害がない。つまり、水俣で私たちが胎児性と言っているような患者は一人も出てこなかった。しかし、細かく見ると、注意力、言語理解、あるいは記憶力に母親の頭髪水銀が10ppm前後で有意の差があるといったことが報告されております。世界はいまや、水俣みたいなレベルの話ではないんですね。微量の水銀が、特にお腹の中の赤ちゃんにどういう影響を及ぼすかということを、世界中の人たちが研究しています。それなのに日本は、いまだに症状が三つあったら水俣病というけれども、症状二つじゃいかんとか、そういう議論をしてるんです。本当に恥ずかしい。一番進まなければいけなかった日本の水銀研究が一番遅れています。……日本では、2,3年前、重症の胎児性の患者さんが見つかっています。」(p280)
最近、どこかで素敵な言葉を目にした。「人間は喜ぶために生まれてきた。」
そして2,3日前、「水俣学講義」を読んでいてこんな言葉が目に入ってきた。
「おばあちゃんが言うには、この子は人がくると嬉しいんだ、外も好きなんだ。特に天気が良い日に海に連れて行くと、本当に喜ぶ。ところが、喜ぶと身体が突っ張り出す。それで、あわてて家に入る。お医者さんたちは『この子は耳も聞こえず、目も見えず、何も分からない』というけれど、この子は喜んでいるんだと。私もそう思いました。生まれつき田中敏昌君の魂は土牢のなかに入れられていて、かすかに光が射すとそれに応えようとするんですね。そうすると今度は突っ張りが起きるわけでしょう。喜ぶことさえできないような身体で生まれてきた。本当にこんなことがあっていいんだろうかと思いました。」(宮澤信雄 『水俣学講義』p188)
私たちが生きている世界のことだ。今、生きている世界のことだ。
※ この田中君は胎児性の水俣病患者です。つまり胎児のときに有機水銀に侵された。
けれども胎児性の患者は非常に長い期間、水俣病だと認定されませんでした。原田氏は反省を込めて、述べています。もともと医学では胎盤は毒物を通さないと教わってきた。そう確信してきた。事実、無機水銀は胎盤を通らないし脳にも入っていかない。けれども有機水銀は胎盤を通り、脳も侵す。それを患者のお母さんたちから激しく指摘され、学んだそうです。「お父さんも、上の子も水俣病で、私もいっぱい魚を食べてきて、この子だけどうして違うなどと言うことがあるんだ」と。
水俣病の発症は第一号の患者が見つかる遙か以前にさかのぼります。その患者たちは当然、病院にいっていました。医者の目の前に水俣病患者がいた。けれども、それはこれまでになかった病気だと認識されず、しかもある地域に集中して発生しているにもかかわらず、それと認識されず、長い時間が経過してしまいました。
犬養道子の『見ないことが罪』という言葉を引用したけれど、「見えないこと」も罪なのかも知れない。
先日、少しふれたことの続き。
1日遅れてしまったが、1940年9月26日、フランスとスペインの国境地帯に広がるピレネー山中で服毒死した。ヴァルター・ベンヤミン、48歳。フランクフルト学派の社会学者であり、ユダヤ人であり、ナチスの迫害を逃れ、膨大な未完の原稿をかかえ、逃げまどった末の自死だった。
ベンヤミンは現在でも大きな大きな影響を与え続けている。私の書棚の中でも社会科学系の著作の中では、ベンヤミンの書いたものがもっとも量的に多いかも知れない。
ベンヤミンがピレネーにさしかかった頃、その山脈の近くには20世紀最大のチェロ奏者といわれるパブロ・カザルスもいた。
スペイン・カタルーニャ地方で生まれた彼は、フランコが軍事クーデターを起こし、スペインの政権を奪取。フランスに亡命。そのフランコがヒトラー、ムソリーニと親密な関係を築くなかナチスへ抵抗を続けた。フランコは1975年に没するまでスペインを独裁的支配下に置く。そしてカザルスは、1973年に没し、生涯スペインに戻ることができなかった。
そのカザルスの1939年録音のバッハの無伴奏チェロ組曲をもっている。彼はピレネー山麓の亡命地で、スペインを、カタロニアを想い、毎日、6曲ある無伴奏チェロ組曲を1曲ずつ弾いていたという。
ときどき、ふとベンヤミンが薬をあおったとき、カザルスは何をしていたのだろうと思うことがある。
受験の現代文を読んでいて、美術史家の若桑みどりの文章に出会った。少し引用しておこうと思う。
「私のように、幼い頃から価値体系が崩れたり、立て直されたり、また壊れたりしてきたのを見続けてきた世代の人間は、この絶望感から救われるには、人よりも少しずつ前後に長い時間の意識を持たなければ到底生きてはいけない。私が歴史家になったのは主として絶望感のためである。」
戦争を挟んで、巨大な価値観の転換が日本に起こった。その時代を生きてきたのだろう。そして若桑は自分の歴史研究についてこう述べている。
「私が、これらのことを鋭く感じるのは、私がレオナルドやミケランジェロのように、同時代人によってすでに崇拝されていた芸術家ではなく、同時代人とそれに続く数世代の人間によって低く評価された芸術家や、エポックを研究しているせいであろう。同時代人によって叩かれた芸術家が、時の流れを生き延びてわれわれのところに漂着するのは、とてもむずかしく、おそらく多くの人々が、死んで沈んでしまった。
(中略)
いわれない差別に苦しんだ無数の人々、すべてのふさわしい報いを受けなかった有徳の人や天才や不幸な恋人たちの『魂』はどこで救われるのか! 歴史は大いなる暗闇である。不具にされ、変形され、ときには惨殺された『真実』がルイルイと横たわっている。そこに行くにはコクトーの『オルフェ』のように、非常な苦しみをもって時間をさかのぼらなければならない。それが深海や宇宙の暗黒とことなることがあろうか?」
カザルスやベンヤミンは、同時代人によってすでによく知られた存在だ。
若桑の視界は、彼らの向こう側に、ハンナ・アレントの言葉を借りていえば「忘却の穴」に飲み込まれ、沈んでいこうとするものを、あるいは沈んでしまったものを捉え、掬い上げようとしている。それはたぶん、若桑自身のための歴史でもあるはずだ。そして彼女は、自分の研究と言葉と存在をつうじて、沈み込み、途絶えてしまいそうな人間の歴史の細い糸をつなげていこうとしていたのだと思う。
私もまたその糸を、その端っこをほんの少しだけ、誰かにつなげられたら、と願っている。
★ベンヤミンの本は岩波現代文庫から「パサージュ論」(全5巻)、岩波文庫から評論集として「暴力批判論」「ボードレール」、ちくま学芸文庫から「ベンヤミン コレクション」(全4巻)、「ドイツ悲劇の根源」(上・下)、平凡社ライブラリーから「子どものための文化史」などが出ている。
研究書は数知れない。
ベンヤミンの一つのテクストの詳細な読解を行っているものとして、岩波現代文庫から多木浩二の「『複製技術時代の芸術作品』精読」、今村仁司の「『歴史哲学テーゼ』精読」が出ている。
1日遅れてしまったが、1940年9月26日、フランスとスペインの国境地帯に広がるピレネー山中で服毒死した。ヴァルター・ベンヤミン、48歳。フランクフルト学派の社会学者であり、ユダヤ人であり、ナチスの迫害を逃れ、膨大な未完の原稿をかかえ、逃げまどった末の自死だった。
ベンヤミンは現在でも大きな大きな影響を与え続けている。私の書棚の中でも社会科学系の著作の中では、ベンヤミンの書いたものがもっとも量的に多いかも知れない。
ベンヤミンがピレネーにさしかかった頃、その山脈の近くには20世紀最大のチェロ奏者といわれるパブロ・カザルスもいた。
スペイン・カタルーニャ地方で生まれた彼は、フランコが軍事クーデターを起こし、スペインの政権を奪取。フランスに亡命。そのフランコがヒトラー、ムソリーニと親密な関係を築くなかナチスへ抵抗を続けた。フランコは1975年に没するまでスペインを独裁的支配下に置く。そしてカザルスは、1973年に没し、生涯スペインに戻ることができなかった。
そのカザルスの1939年録音のバッハの無伴奏チェロ組曲をもっている。彼はピレネー山麓の亡命地で、スペインを、カタロニアを想い、毎日、6曲ある無伴奏チェロ組曲を1曲ずつ弾いていたという。
ときどき、ふとベンヤミンが薬をあおったとき、カザルスは何をしていたのだろうと思うことがある。
受験の現代文を読んでいて、美術史家の若桑みどりの文章に出会った。少し引用しておこうと思う。
「私のように、幼い頃から価値体系が崩れたり、立て直されたり、また壊れたりしてきたのを見続けてきた世代の人間は、この絶望感から救われるには、人よりも少しずつ前後に長い時間の意識を持たなければ到底生きてはいけない。私が歴史家になったのは主として絶望感のためである。」
戦争を挟んで、巨大な価値観の転換が日本に起こった。その時代を生きてきたのだろう。そして若桑は自分の歴史研究についてこう述べている。
「私が、これらのことを鋭く感じるのは、私がレオナルドやミケランジェロのように、同時代人によってすでに崇拝されていた芸術家ではなく、同時代人とそれに続く数世代の人間によって低く評価された芸術家や、エポックを研究しているせいであろう。同時代人によって叩かれた芸術家が、時の流れを生き延びてわれわれのところに漂着するのは、とてもむずかしく、おそらく多くの人々が、死んで沈んでしまった。
(中略)
いわれない差別に苦しんだ無数の人々、すべてのふさわしい報いを受けなかった有徳の人や天才や不幸な恋人たちの『魂』はどこで救われるのか! 歴史は大いなる暗闇である。不具にされ、変形され、ときには惨殺された『真実』がルイルイと横たわっている。そこに行くにはコクトーの『オルフェ』のように、非常な苦しみをもって時間をさかのぼらなければならない。それが深海や宇宙の暗黒とことなることがあろうか?」
カザルスやベンヤミンは、同時代人によってすでによく知られた存在だ。
若桑の視界は、彼らの向こう側に、ハンナ・アレントの言葉を借りていえば「忘却の穴」に飲み込まれ、沈んでいこうとするものを、あるいは沈んでしまったものを捉え、掬い上げようとしている。それはたぶん、若桑自身のための歴史でもあるはずだ。そして彼女は、自分の研究と言葉と存在をつうじて、沈み込み、途絶えてしまいそうな人間の歴史の細い糸をつなげていこうとしていたのだと思う。
私もまたその糸を、その端っこをほんの少しだけ、誰かにつなげられたら、と願っている。
★ベンヤミンの本は岩波現代文庫から「パサージュ論」(全5巻)、岩波文庫から評論集として「暴力批判論」「ボードレール」、ちくま学芸文庫から「ベンヤミン コレクション」(全4巻)、「ドイツ悲劇の根源」(上・下)、平凡社ライブラリーから「子どものための文化史」などが出ている。
研究書は数知れない。
ベンヤミンの一つのテクストの詳細な読解を行っているものとして、岩波現代文庫から多木浩二の「『複製技術時代の芸術作品』精読」、今村仁司の「『歴史哲学テーゼ』精読」が出ている。
指導の土台として社会学の文献を読むうちに見田宗介の『現代社会の理論』(岩波新書)と出会い、、センター試験の問題文で石牟礼道子の文章を読んだ。1996年に見田の本が出版されたころ、社会的にはもう水俣病は終わった、過去のものと思われていたのではないかという気がする。見田はその本の2章で1節を設けて水俣病について記した。石牟礼道子はその水俣病をみつめ、共に生き、もっとも初期のそして最も根源的な告発の書である『苦海浄土』を記した。石牟礼の告発の根源性は声高なものではない。むしろひとり一人の人間への愛情とその眼差し、そして美しかった不知火の海への想いが交錯するところから水俣の病が浮かび上がってくる。
評論文などで近代の問題性を扱ったものが多数ある。
それは一種の問題群をなしている。河合塾の『現代文のキーワード』では「問題群としての近代」という項も設けられている。
確かに歴史が動いていくものである以上、一つの時代はいつしか問題群となり、次の時代へ移り変わって行かなくてはならないだろう。
けれどもそれは抽象的な世界のことではない。その問題群の下には生身の人間が生き、そして死んでいく。優れた評論文は問題群を抽象的な「問題群」としてではなく、その水面下に生きた人間を捉えることを要求する。またそこに原点がある。
例えばナチスの迫害を逃れて第二次世界大戦中、アメリカに亡命していたドイツの社会学者のテオドール・アドルノは「アウシュビッツの後、詩を書くことは野蛮である」と述べた。同じフランクフルト学派に属していたヴァルター・ベンヤミンは、膨大な未完の論考を抱え、ナチスの追及から逃げまどい1940年9月26日、ピレネー山中で服毒死をした。その際抱えていた未完の論考は、膨大な『パサージュ論』として出版されている。彼はユダヤ人だった。強制収容所で死んだのではない。けれども彼もまた収容所の同胞たちと同じものに捉えられていたと言うべきだろう。
哲学者のサルトルは確かヒロシマ、ナガサキの原爆をしり、人類が自分たちを全滅させる手段を握ってしまったという事実を前にして、「人類は、自らの意志で自らの存続を打ち立てなくてはならなくなった」という趣旨のことを述べた。
現代史において生み出された大きな問題を、その時代を生きている責任において捉えようとする意志があり、同時に、新しい時代のありようの模索が始まる。
しかし、こうした戦争や戦時に端を発する<近代への批判>と別に環境問題、貧困と飢餓の問題、いわゆる「公害」などの問題がある。見田宗介の先述の著作は、こうした中で書かれた。そしてもっとも激しく深刻なものとして水俣病が上げられていた。
(それ以外に石弘之の『地球環境報告』とレイチェル・カーソンの『沈黙の春』、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』などが取り上げられている)
そこで原田正純氏の『水俣病』(岩波新書 1972年11月刊)を読んだ。
私は自分の不明を深く恥じた。一体この世界の、この社会の何を知ってきたのだろうかと思った。犬養道子の言葉をかりれば「見ないことが罪なのだ」(『未来からの過去』)ということなのだと思う。
(以下、別稿で)
評論文などで近代の問題性を扱ったものが多数ある。
それは一種の問題群をなしている。河合塾の『現代文のキーワード』では「問題群としての近代」という項も設けられている。
確かに歴史が動いていくものである以上、一つの時代はいつしか問題群となり、次の時代へ移り変わって行かなくてはならないだろう。
けれどもそれは抽象的な世界のことではない。その問題群の下には生身の人間が生き、そして死んでいく。優れた評論文は問題群を抽象的な「問題群」としてではなく、その水面下に生きた人間を捉えることを要求する。またそこに原点がある。
例えばナチスの迫害を逃れて第二次世界大戦中、アメリカに亡命していたドイツの社会学者のテオドール・アドルノは「アウシュビッツの後、詩を書くことは野蛮である」と述べた。同じフランクフルト学派に属していたヴァルター・ベンヤミンは、膨大な未完の論考を抱え、ナチスの追及から逃げまどい1940年9月26日、ピレネー山中で服毒死をした。その際抱えていた未完の論考は、膨大な『パサージュ論』として出版されている。彼はユダヤ人だった。強制収容所で死んだのではない。けれども彼もまた収容所の同胞たちと同じものに捉えられていたと言うべきだろう。
哲学者のサルトルは確かヒロシマ、ナガサキの原爆をしり、人類が自分たちを全滅させる手段を握ってしまったという事実を前にして、「人類は、自らの意志で自らの存続を打ち立てなくてはならなくなった」という趣旨のことを述べた。
現代史において生み出された大きな問題を、その時代を生きている責任において捉えようとする意志があり、同時に、新しい時代のありようの模索が始まる。
しかし、こうした戦争や戦時に端を発する<近代への批判>と別に環境問題、貧困と飢餓の問題、いわゆる「公害」などの問題がある。見田宗介の先述の著作は、こうした中で書かれた。そしてもっとも激しく深刻なものとして水俣病が上げられていた。
(それ以外に石弘之の『地球環境報告』とレイチェル・カーソンの『沈黙の春』、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』などが取り上げられている)
そこで原田正純氏の『水俣病』(岩波新書 1972年11月刊)を読んだ。
私は自分の不明を深く恥じた。一体この世界の、この社会の何を知ってきたのだろうかと思った。犬養道子の言葉をかりれば「見ないことが罪なのだ」(『未来からの過去』)ということなのだと思う。
(以下、別稿で)