since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
パウル・ツェランに激しく心を惹かれている。もうすぐ詩集と論集がくる。
岡真理の文章を受けて慶応大学の文学部が小論文を出している。そこで小論文では「岡真理の立場とアドルノの立場を対照的に…」としている。岡真理の文章は「飢えたアフリカの子どもたちにとって文学は何ができるか」というサルトルの問いに対しながら、戦争と文学の関係を、その文学の力を信じる側に立って書かれたものだ。いやそれは実は根源的に人間を信じる側に立って書かれたものだろうと思う。人間はパンだけで生きているわけではない。人間は平和だけで生きているわけではない。あらゆる状況の中で人間は人間としての矜恃をもち、生き続けている。そうした人間がいる。聖書の言葉を思い出す。
「肉体を滅ぼすことができても魂を滅ぼすことができないものを恐れるな。」
私を支えていた言葉だった。
そして文学はその「魂」にかかわることなのだと思う。いや文学だけではない。社会学者の見田宗介も自らの仕事を「魂のある仕事だ」といっていた(『社会学入門』岩波新書p14)。
慶応大の2007年の問題は、(2)でアドルノの言葉(「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である」という)と筆者の立場を対照させ、空爆にさらされた中で執筆するパレスチナ人作家・ナスラッラーの文章を引き、その存在を捉え、戦争と文学が「対義」であることについて小論文を書かせるものになっている。アウシュビッツの後でも詩は、文学は書かれるし、書かれなくてはいけないのだという慶応大学文学部のメッセージだろう。強いメッセージだ。
ナスラッラーは確かに「アウシュビッツの後で小説を」書いている。詩ではないが。
それは確かにそうだ。
しかし、と思う。ユダヤ系ドイツ人の詩人・パウル・ツェランもまたアドルノの言葉への根源的な応答であると思われていたのではないか。両親が強制連行される状況を目の当たりにし、そこから身をかわした自己を呪っていた。両親は収容所で死んだ。彼自身もまた労働収容所に入れられた。
共産主義の空気を嫌い、1948年にフランスに亡命。現代ドイツを代表する詩人となった。しかしツェランは1970年4月20日、セーヌで入水と思われる死を遂げた。49歳。
詩の可能性に激しく託すものがあったはずだ。そのことを告げる金時鍾の文章がある(岩波書店 「思想」2000年1号の「思想の言葉」)。それは金時鍾をして驚嘆させるものだった。
その彼の最後の視界を捉えたい。その言葉を捉えたい。その射程を捉え、感じとり、そして私もまたそこに連なりたいと思う。
「アウシュビッツ」から生還したプリモ・レビィもまた自死した。1987年4月11日。篠田浩一郎によれば(『閉ざされた時空』白水社)、彼はいわば半身をアウシュビッツにとらわれ続けていた。いや正確ではない。意識の半ばを。一日の半分を。夜を、夢を。夜ごと彼はアウシュビッツに連れ去られた。
パウル・ツェランもレビィも、「アウシュビッツの後」と言えるのか?むしろ彼らは一貫してアウシュビッツの中で書き続けていたのではないか。彼らは根源的なところで「アウシュビッツから帰還」できなかったのではないだろうか。それは『ショアー』のスレブニクが、「精神的死者」としてしか絶滅収容所のヘウムノから帰還することができなかったことと同じなのではないだろうか。
ナスラッラーは、レビィやツェランが越えられなかった壁を突き抜けたのだろうか。
巨大な、本当に巨大な暴力と壁に直面し続けた人間が、その壁にまっすぐに、垂直にぶつかり続けた人間が何を見て、何を感じたのか。それを見届けたいと思う。それはどれほどの困難と、どれほどの格闘があっても、越えて行かなくてはいけない壁なのだと思うからだ。彼らがもし越えることができなかったのであれば、私にできるわけではないにしても、誰かがそれを引き継ぎ、誰かが越えなくてはならないと思うからだ。
私は人間を信じようと思う。その力をいまは信じられる気がする。その力を感じることができるような気がする。
戦争も、強制収容所も、それらは自然の猛威などではない。人間が生み出したものだ。ならば、それを越える力も人間の中に宿っているのではないか。それがいままだ眠り込まされているにしても。
岡真理の文章を受けて慶応大学の文学部が小論文を出している。そこで小論文では「岡真理の立場とアドルノの立場を対照的に…」としている。岡真理の文章は「飢えたアフリカの子どもたちにとって文学は何ができるか」というサルトルの問いに対しながら、戦争と文学の関係を、その文学の力を信じる側に立って書かれたものだ。いやそれは実は根源的に人間を信じる側に立って書かれたものだろうと思う。人間はパンだけで生きているわけではない。人間は平和だけで生きているわけではない。あらゆる状況の中で人間は人間としての矜恃をもち、生き続けている。そうした人間がいる。聖書の言葉を思い出す。
「肉体を滅ぼすことができても魂を滅ぼすことができないものを恐れるな。」
私を支えていた言葉だった。
そして文学はその「魂」にかかわることなのだと思う。いや文学だけではない。社会学者の見田宗介も自らの仕事を「魂のある仕事だ」といっていた(『社会学入門』岩波新書p14)。
慶応大の2007年の問題は、(2)でアドルノの言葉(「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である」という)と筆者の立場を対照させ、空爆にさらされた中で執筆するパレスチナ人作家・ナスラッラーの文章を引き、その存在を捉え、戦争と文学が「対義」であることについて小論文を書かせるものになっている。アウシュビッツの後でも詩は、文学は書かれるし、書かれなくてはいけないのだという慶応大学文学部のメッセージだろう。強いメッセージだ。
ナスラッラーは確かに「アウシュビッツの後で小説を」書いている。詩ではないが。
それは確かにそうだ。
しかし、と思う。ユダヤ系ドイツ人の詩人・パウル・ツェランもまたアドルノの言葉への根源的な応答であると思われていたのではないか。両親が強制連行される状況を目の当たりにし、そこから身をかわした自己を呪っていた。両親は収容所で死んだ。彼自身もまた労働収容所に入れられた。
共産主義の空気を嫌い、1948年にフランスに亡命。現代ドイツを代表する詩人となった。しかしツェランは1970年4月20日、セーヌで入水と思われる死を遂げた。49歳。
詩の可能性に激しく託すものがあったはずだ。そのことを告げる金時鍾の文章がある(岩波書店 「思想」2000年1号の「思想の言葉」)。それは金時鍾をして驚嘆させるものだった。
その彼の最後の視界を捉えたい。その言葉を捉えたい。その射程を捉え、感じとり、そして私もまたそこに連なりたいと思う。
「アウシュビッツ」から生還したプリモ・レビィもまた自死した。1987年4月11日。篠田浩一郎によれば(『閉ざされた時空』白水社)、彼はいわば半身をアウシュビッツにとらわれ続けていた。いや正確ではない。意識の半ばを。一日の半分を。夜を、夢を。夜ごと彼はアウシュビッツに連れ去られた。
パウル・ツェランもレビィも、「アウシュビッツの後」と言えるのか?むしろ彼らは一貫してアウシュビッツの中で書き続けていたのではないか。彼らは根源的なところで「アウシュビッツから帰還」できなかったのではないだろうか。それは『ショアー』のスレブニクが、「精神的死者」としてしか絶滅収容所のヘウムノから帰還することができなかったことと同じなのではないだろうか。
ナスラッラーは、レビィやツェランが越えられなかった壁を突き抜けたのだろうか。
巨大な、本当に巨大な暴力と壁に直面し続けた人間が、その壁にまっすぐに、垂直にぶつかり続けた人間が何を見て、何を感じたのか。それを見届けたいと思う。それはどれほどの困難と、どれほどの格闘があっても、越えて行かなくてはいけない壁なのだと思うからだ。彼らがもし越えることができなかったのであれば、私にできるわけではないにしても、誰かがそれを引き継ぎ、誰かが越えなくてはならないと思うからだ。
私は人間を信じようと思う。その力をいまは信じられる気がする。その力を感じることができるような気がする。
戦争も、強制収容所も、それらは自然の猛威などではない。人間が生み出したものだ。ならば、それを越える力も人間の中に宿っているのではないか。それがいままだ眠り込まされているにしても。
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