since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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07/26
何でも勉強するものですね。
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思わぬ契機から「サッカー」のことを「勉強」することになってしまった。勉強といってもちょっと本を読む程度です。サッカーを「する」わけではありません。してもいいけど、とりあえずこの暑さの中ではやりたくありません。
とりあえずいま、村松尚登氏の『スペイン人はなぜ小さいのにサッカーが強いのか』と、坂本圭氏の『美しいフットボールは生き残る』という2冊を読みつつあります。まぁ、このくらいで「勉強している」とはとても言えない。けれどもただ趣味で読んでいるわけでもありません。けっこう真剣に読んでいます。
ということで、私はいま、ちょっとだけ「スペイン・サッカー」に詳しくなりつつあります。ワールドカップは無関係ではありません。けれども「ワールドカップでスペインが優勝したから」というわけでもありません。だからイニエスタだったらたぶん、顔を見ればわかるけれども、シャビはわかりません。けれどもスペインサッカーがどういうバックグランドをもって、どういう組織と個人が作り上げられてきているのかということは少しだけ知るようになりました。
少し踏み込むと、ちょっと違う風景が見えてくることがあります。
ふたりの筆者はどうやら友人のようで、同じようなことを書いているけれども、ふたりとも日本のサッカーはどうやった強くなるのか、ということを真剣に考えています。それが真剣であればあるほど、その言葉はサッカーだけではなく、日本の教育、そのシステム、文化的風土、歴史、社会の仕組み、そうしたものから作られるメンタリティ… そうしたことに広がっていきます。これが例えば「名古屋グランパスはどうやったら強くなるのか」という設問であれば、きっとスポンサーのあり方、チームの運営と指導、サポーターのあり方などなどと限定された内容になるのでしょうが、「日本のサッカーは?」と問題をたてると、それが日本全体の課題にどこかでつながってくるようです。単純にサッカーの歴史が短いというようなことではなく、日本人がやっているスポーツだから、ということに起因する課題があるからです。
サッカーの本を読むことで思わぬ刺激を受けました。
勉強するというのはきっとこういうことなのだろうなと思います。筆者の方々もサッカーを通して様々なことを学び、私も、その視野から思わぬものをみることができる。そういう関連の中で人間の関わりはあるのだろうと思います。
興味がある人は一度読んでみたらよいと思います。
ただし、歴史や社会現状についての認識で、ちょっと間違っているなと思う点もあります。あるいは、ここで議論を止めてしまったらダメだろう、と思う点もあります。
それはきっとこれから様々な人びととの討議や検討を通じて深められていく論点になるのでしょう。いやもうそういうことは行われているのかもしれません。真剣にいろんなことを学ぶことは、思っているよりも大きな視野の広がりを、思わぬ視野の広がりをもたらしてくれるものです。
とりあえずいま、村松尚登氏の『スペイン人はなぜ小さいのにサッカーが強いのか』と、坂本圭氏の『美しいフットボールは生き残る』という2冊を読みつつあります。まぁ、このくらいで「勉強している」とはとても言えない。けれどもただ趣味で読んでいるわけでもありません。けっこう真剣に読んでいます。
ということで、私はいま、ちょっとだけ「スペイン・サッカー」に詳しくなりつつあります。ワールドカップは無関係ではありません。けれども「ワールドカップでスペインが優勝したから」というわけでもありません。だからイニエスタだったらたぶん、顔を見ればわかるけれども、シャビはわかりません。けれどもスペインサッカーがどういうバックグランドをもって、どういう組織と個人が作り上げられてきているのかということは少しだけ知るようになりました。
少し踏み込むと、ちょっと違う風景が見えてくることがあります。
ふたりの筆者はどうやら友人のようで、同じようなことを書いているけれども、ふたりとも日本のサッカーはどうやった強くなるのか、ということを真剣に考えています。それが真剣であればあるほど、その言葉はサッカーだけではなく、日本の教育、そのシステム、文化的風土、歴史、社会の仕組み、そうしたものから作られるメンタリティ… そうしたことに広がっていきます。これが例えば「名古屋グランパスはどうやったら強くなるのか」という設問であれば、きっとスポンサーのあり方、チームの運営と指導、サポーターのあり方などなどと限定された内容になるのでしょうが、「日本のサッカーは?」と問題をたてると、それが日本全体の課題にどこかでつながってくるようです。単純にサッカーの歴史が短いというようなことではなく、日本人がやっているスポーツだから、ということに起因する課題があるからです。
サッカーの本を読むことで思わぬ刺激を受けました。
勉強するというのはきっとこういうことなのだろうなと思います。筆者の方々もサッカーを通して様々なことを学び、私も、その視野から思わぬものをみることができる。そういう関連の中で人間の関わりはあるのだろうと思います。
興味がある人は一度読んでみたらよいと思います。
ただし、歴史や社会現状についての認識で、ちょっと間違っているなと思う点もあります。あるいは、ここで議論を止めてしまったらダメだろう、と思う点もあります。
それはきっとこれから様々な人びととの討議や検討を通じて深められていく論点になるのでしょう。いやもうそういうことは行われているのかもしれません。真剣にいろんなことを学ぶことは、思っているよりも大きな視野の広がりを、思わぬ視野の広がりをもたらしてくれるものです。
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京都大学は現代文の問題文に比較的古いものを出すことが多い。例えば森鴎外、島崎藤村、寺田寅彦(夏目漱石の友人で物理学者)、戦前の京都学派と言われた哲学の西田幾多郎、永井荷風や泉鏡花などなど。明治文語文がときおり出題されることがある。
以下はちょっと再論のようになる。(石牟礼道子、渡辺一夫…http://parlabasso.dou-jin.com/Entry/2/)
歴史をどう捉えているかで読み方がかなり変わってくる。
ここで求められている歴史とは、何年に何があったというだけのものではない。その書き手がいったい何を見ていたのか、その視界を感じとることができるような、そういう歴史的な視野だ。ただ、その際、「何年に何があったなどということを覚えることに意味はない」ということは経験上、間違っていると思う。確かに数字だけでは意味がない。けれどもその数字は重要なヒントになる。
例えば東大のフランス文学者で森有正や大江健三郎の先生にあたる渡辺一夫の文章を、「oct1939」という日付入りで問題文に採用している(Z会 現代文のトレーニング記述編 所収)。どこかの入試問題だろうか。
そこで「一二の外国の指導者の行動が与える教訓は、思想の脆弱性に対する人間の自責を感じさせることは当然であるとしても」、とした上で、「我々がなすべき唯一の仕事は、思想や倫理に対する信頼と愛の保持強化と、その拡大以上にはないようにも思われる」と述べている。そしてプラトンの描くソクラテスに触れながら「ソクラテスの魂に心を撃たれぬ人間はもちろん人間ではないが、心を撃たれながらも自らを巧みに卑下しながら赤い舌を出すことによって保身を全うせんとするのが我々の悪癖である。これに思いを致して慚愧感憤せざる時、われわれは畢竟するに泥水にただ育々と生きる『考えざる葦』以外のものではなくなることを覚悟せねばならない」と結んだ。
いったい「一二の外国の指導者」とは誰だろう。その行動とは何だろう。「oct1939」。世界史・日本史を高校で学ぶということはこの文章が読めるようになると言うことであって欲しい。
第二次世界大戦は1941年12月の日米開戦で始まるのではなく、1939年7月のドイツによるポーランド侵攻からはじまる。その3ヶ月後に書かれた文章だ。ならばこの指導者はまぎれもなくヒトラーとムソリーニをさしているに違いない。行動とは第二次世界大戦の勃発、あるいはポーランドへの侵攻のことであることは間違いないだろう。
しかしそれだけではないかもしれない。
「ヒトラーがドイツ首相の地位についたのは1933年1月30日のことであったが、ダッハウの、最初の強制集中収容所の開設がミュンヘン知事によって新聞に公表されたのはそのわずか3ヶ月後、3月30日のことであった」(篠田浩一郎『閉ざされた時空-ナチ強制収容所の文学』p250)。しかしこの段階の強制収容所はまだアウシュビッツのような場所ではなかった。ユダヤ人への迫害はこれから激化していく時期だった。しかし渡辺が先の文章を書いたときはどうだっただろうか。
「水晶の夜」という言葉をきいたことがあるだろうか。詩的な響きすらする言葉だ。けれどもその実態はまったくことなる。先の篠田の本から引用しよう。
「1938年11月8日、両親を収容所に奪われたユダヤ人の青年がパリのドイツ大使館で一等参事官をピストルで射殺するという事件がおこった。10日夜、ヒムラーが全ドイツ警察長官になったのにともないゲシュタポ隊長に任ぜられていたハイドリヒの指令によって、ドイツ全土にわたりユダヤ人の集団虐殺とユダヤ教会の放火が行われ、翌11日には1万人のユダヤ人がブーヘンヴァルト強制収容所に送られた」(前掲p268)。この夜のことを指して「水晶の夜」といわれる。その夜、ユダヤ人の教会や商店がドイツ全土で襲われ、破壊されたという。その時、砕けるガラスが飛び散る様子からこのように呼ばれるようになったとどこかで読んだことがある。その視界は襲われる側ではなく、襲う側からの視界だ。
ドイツのポーランド侵攻の1年前にはすでにこのような自体がドイツ国内で進行していた。フランス文学の研究者としてとしてヨーロッパにも知己があったであろう渡辺一夫は、ドイツで起こっている事態を知っていたに違いない。
一方日本国内では1925年に制定され、28年に改正された治安維持法による弾圧が頻発していた。35年には左翼運動がほぼ壊滅させられ、それ以降、矛先は大本教やひとのみち教団などの宗教者(岩波新書に『宗教弾圧を語る』というのがあり、くわしく証言を集めている)に、また自由主義者や民主主義者にも「アカの温床」として弾圧が拡大していく。ちなみに入試問題でも出題される哲学者の三木清は、治安維持法で逮捕され服役。終戦後1ヶ月以上たった9月26日に獄死している。
こうした歴史の激しい軋みの渦中に身をおき、渡辺一夫は「我々がなすべき唯一の仕事は、思想や倫理に対する信頼と愛の保持強化と、その拡大以上にはない」と述べている。その言葉はいったいどれほど激しく強い決意と覚悟に裏打ちされていたことだろうか。
そう思うと最後の「自らを巧みに卑下しながら赤い舌を出すことによって保身を全うせんとするのが我々の悪癖である。これに思いを致して慚愧感憤せざる時、われわれは畢竟するに泥水にただ育々と生きる『考えざる葦』以外のものではなくなることを覚悟せねばならない」という文章は重い。ずるく舌を出しながら保身することはある。しかしそれを容認するとき、すでに我々は人間たり得ない、ただの泥水の中の葦に過ぎない、と言っているのだ。
この時、私には渡辺一夫が、治安維持法が、その下での拷問や獄死がわが身に降りかかるならかかるが良い、私は例えそのような事態になろうとも人間であることを辞めないと覚悟し、その決意を明らかにしたのだと思う。
これは簡単なことではない。
この時代、暴力的な重圧の中、多くの知識人や文化人に「戦争協力」が要求された。そしてそれまでの立場や思想を放り出して一夜にして戦争翼賛する文章を書き始めた人びとが膨大に存在した。戦後そのことを恥じた人びとの中には「個人全集」に収められた自分の文章をこっそり修正するという姑息な対応をしている者までいるくらいだ。
そう思うとき、渡辺の文章の読み方、それへの接し方、対し方は根本的に変わってくるのではないか。歴史が軋み、その軋みの中に人間を飲み込み、すり潰していくようにして進んでいくなか、全身をさらし、自分の信じるところに立ち続けようとした者の言葉だ。
書かれた言葉はしょせん紙の上のインクの染みのようなものにすぎない。そこに書き手が何を込めようと、何を託そうとそれ以上のものにはなりようがない。そこに彼はいない。どこにも筆者は存在しない。行間に目をこらそうと、紙背に徹しようとそこにはなにもない。しかしそのような存在でしかあり得ない言葉に、何事かを捉えることがあるのならば、その言葉の中に人間の存在を感じとり、掴み出すことがあるのであれ、それは「読み手」の意志と、知識と論理力につよく立脚し放たれる想像力以外にはない。人間の歴史は、引き継ぐ者が引き受ける意志を持たない限り、そこで絶ち切られる。
言葉はそうしたものだと思う。襟を正して向かいたい。そして世界史、日本史、現代社会などなど、しっかり学びたい。
以下はちょっと再論のようになる。(石牟礼道子、渡辺一夫…http://parlabasso.dou-jin.com/Entry/2/)
歴史をどう捉えているかで読み方がかなり変わってくる。
ここで求められている歴史とは、何年に何があったというだけのものではない。その書き手がいったい何を見ていたのか、その視界を感じとることができるような、そういう歴史的な視野だ。ただ、その際、「何年に何があったなどということを覚えることに意味はない」ということは経験上、間違っていると思う。確かに数字だけでは意味がない。けれどもその数字は重要なヒントになる。
例えば東大のフランス文学者で森有正や大江健三郎の先生にあたる渡辺一夫の文章を、「oct1939」という日付入りで問題文に採用している(Z会 現代文のトレーニング記述編 所収)。どこかの入試問題だろうか。
そこで「一二の外国の指導者の行動が与える教訓は、思想の脆弱性に対する人間の自責を感じさせることは当然であるとしても」、とした上で、「我々がなすべき唯一の仕事は、思想や倫理に対する信頼と愛の保持強化と、その拡大以上にはないようにも思われる」と述べている。そしてプラトンの描くソクラテスに触れながら「ソクラテスの魂に心を撃たれぬ人間はもちろん人間ではないが、心を撃たれながらも自らを巧みに卑下しながら赤い舌を出すことによって保身を全うせんとするのが我々の悪癖である。これに思いを致して慚愧感憤せざる時、われわれは畢竟するに泥水にただ育々と生きる『考えざる葦』以外のものではなくなることを覚悟せねばならない」と結んだ。
いったい「一二の外国の指導者」とは誰だろう。その行動とは何だろう。「oct1939」。世界史・日本史を高校で学ぶということはこの文章が読めるようになると言うことであって欲しい。
第二次世界大戦は1941年12月の日米開戦で始まるのではなく、1939年7月のドイツによるポーランド侵攻からはじまる。その3ヶ月後に書かれた文章だ。ならばこの指導者はまぎれもなくヒトラーとムソリーニをさしているに違いない。行動とは第二次世界大戦の勃発、あるいはポーランドへの侵攻のことであることは間違いないだろう。
しかしそれだけではないかもしれない。
「ヒトラーがドイツ首相の地位についたのは1933年1月30日のことであったが、ダッハウの、最初の強制集中収容所の開設がミュンヘン知事によって新聞に公表されたのはそのわずか3ヶ月後、3月30日のことであった」(篠田浩一郎『閉ざされた時空-ナチ強制収容所の文学』p250)。しかしこの段階の強制収容所はまだアウシュビッツのような場所ではなかった。ユダヤ人への迫害はこれから激化していく時期だった。しかし渡辺が先の文章を書いたときはどうだっただろうか。
「水晶の夜」という言葉をきいたことがあるだろうか。詩的な響きすらする言葉だ。けれどもその実態はまったくことなる。先の篠田の本から引用しよう。
「1938年11月8日、両親を収容所に奪われたユダヤ人の青年がパリのドイツ大使館で一等参事官をピストルで射殺するという事件がおこった。10日夜、ヒムラーが全ドイツ警察長官になったのにともないゲシュタポ隊長に任ぜられていたハイドリヒの指令によって、ドイツ全土にわたりユダヤ人の集団虐殺とユダヤ教会の放火が行われ、翌11日には1万人のユダヤ人がブーヘンヴァルト強制収容所に送られた」(前掲p268)。この夜のことを指して「水晶の夜」といわれる。その夜、ユダヤ人の教会や商店がドイツ全土で襲われ、破壊されたという。その時、砕けるガラスが飛び散る様子からこのように呼ばれるようになったとどこかで読んだことがある。その視界は襲われる側ではなく、襲う側からの視界だ。
ドイツのポーランド侵攻の1年前にはすでにこのような自体がドイツ国内で進行していた。フランス文学の研究者としてとしてヨーロッパにも知己があったであろう渡辺一夫は、ドイツで起こっている事態を知っていたに違いない。
一方日本国内では1925年に制定され、28年に改正された治安維持法による弾圧が頻発していた。35年には左翼運動がほぼ壊滅させられ、それ以降、矛先は大本教やひとのみち教団などの宗教者(岩波新書に『宗教弾圧を語る』というのがあり、くわしく証言を集めている)に、また自由主義者や民主主義者にも「アカの温床」として弾圧が拡大していく。ちなみに入試問題でも出題される哲学者の三木清は、治安維持法で逮捕され服役。終戦後1ヶ月以上たった9月26日に獄死している。
こうした歴史の激しい軋みの渦中に身をおき、渡辺一夫は「我々がなすべき唯一の仕事は、思想や倫理に対する信頼と愛の保持強化と、その拡大以上にはない」と述べている。その言葉はいったいどれほど激しく強い決意と覚悟に裏打ちされていたことだろうか。
そう思うと最後の「自らを巧みに卑下しながら赤い舌を出すことによって保身を全うせんとするのが我々の悪癖である。これに思いを致して慚愧感憤せざる時、われわれは畢竟するに泥水にただ育々と生きる『考えざる葦』以外のものではなくなることを覚悟せねばならない」という文章は重い。ずるく舌を出しながら保身することはある。しかしそれを容認するとき、すでに我々は人間たり得ない、ただの泥水の中の葦に過ぎない、と言っているのだ。
この時、私には渡辺一夫が、治安維持法が、その下での拷問や獄死がわが身に降りかかるならかかるが良い、私は例えそのような事態になろうとも人間であることを辞めないと覚悟し、その決意を明らかにしたのだと思う。
これは簡単なことではない。
この時代、暴力的な重圧の中、多くの知識人や文化人に「戦争協力」が要求された。そしてそれまでの立場や思想を放り出して一夜にして戦争翼賛する文章を書き始めた人びとが膨大に存在した。戦後そのことを恥じた人びとの中には「個人全集」に収められた自分の文章をこっそり修正するという姑息な対応をしている者までいるくらいだ。
そう思うとき、渡辺の文章の読み方、それへの接し方、対し方は根本的に変わってくるのではないか。歴史が軋み、その軋みの中に人間を飲み込み、すり潰していくようにして進んでいくなか、全身をさらし、自分の信じるところに立ち続けようとした者の言葉だ。
書かれた言葉はしょせん紙の上のインクの染みのようなものにすぎない。そこに書き手が何を込めようと、何を託そうとそれ以上のものにはなりようがない。そこに彼はいない。どこにも筆者は存在しない。行間に目をこらそうと、紙背に徹しようとそこにはなにもない。しかしそのような存在でしかあり得ない言葉に、何事かを捉えることがあるのならば、その言葉の中に人間の存在を感じとり、掴み出すことがあるのであれ、それは「読み手」の意志と、知識と論理力につよく立脚し放たれる想像力以外にはない。人間の歴史は、引き継ぐ者が引き受ける意志を持たない限り、そこで絶ち切られる。
言葉はそうしたものだと思う。襟を正して向かいたい。そして世界史、日本史、現代社会などなど、しっかり学びたい。
いろいろ思うところがあり、閉じました。そのまま永久に閉じようと思っていましたが、やはり復活させました。
私はただの媒介に過ぎないと思います。けれども、私を介して誰かから誰かに、パウル・ツェランの言葉を借りれば「投壜通信」のように、届けられなくてはいけない言葉が、その言葉に込められた歴史と、生きられた時間があるように思います。
私にできることは少ないけれども、仲介者の役割ならできるかもしれない。それは人間の魂にかかわる何かを紡ぐことにもなるかもしれない。そう思って再開します。
私はただの媒介に過ぎないと思います。けれども、私を介して誰かから誰かに、パウル・ツェランの言葉を借りれば「投壜通信」のように、届けられなくてはいけない言葉が、その言葉に込められた歴史と、生きられた時間があるように思います。
私にできることは少ないけれども、仲介者の役割ならできるかもしれない。それは人間の魂にかかわる何かを紡ぐことにもなるかもしれない。そう思って再開します。
いつだってびっくりさせて
心配させていけないね
それだって嬉しくなるから
父さんがいたらきっと怒られる
いつでもここにいるから
帰ってきていいんだよ
そう思えばあと一つ二つ
できる我慢もふえるでしょ がんばれがんばれ
長い雨がやっと上がったから
犬と散歩をしてきたよ
ちっちゃい頃のおまえのまねして
水溜まりで遊んだよ
気が強いくせになんだか
泣き虫だったね
ポロポロ涙こぼれているのに
泣いてなんかないっていいはって がんばれがんばれ
はやいようで
長いようで
これまでも
これからも
庭先にうえたコスモス
きれいに咲いてくれたよ
父さんに代わって毎年
種をまいているからね
いつでもここにいるから
帰ってきていいんだよ
そう思えばあと一つ二つ
できる我慢もふえるでしょ がんばれがんばれ
こんな歌を聴く。かすれた声でSIONが歌っている。
人間の声で、人間の言葉で、人間のことを歌っている。
この場に書く内容なのかどうか分からないけれども、どうしても書き残しておきたくなった。
君たちは一人ではないんだ。いいかな?
心配させていけないね
それだって嬉しくなるから
父さんがいたらきっと怒られる
いつでもここにいるから
帰ってきていいんだよ
そう思えばあと一つ二つ
できる我慢もふえるでしょ がんばれがんばれ
長い雨がやっと上がったから
犬と散歩をしてきたよ
ちっちゃい頃のおまえのまねして
水溜まりで遊んだよ
気が強いくせになんだか
泣き虫だったね
ポロポロ涙こぼれているのに
泣いてなんかないっていいはって がんばれがんばれ
はやいようで
長いようで
これまでも
これからも
庭先にうえたコスモス
きれいに咲いてくれたよ
父さんに代わって毎年
種をまいているからね
いつでもここにいるから
帰ってきていいんだよ
そう思えばあと一つ二つ
できる我慢もふえるでしょ がんばれがんばれ
(作詞・作曲 SION 『がんばれがんばれ』)
こんな歌を聴く。かすれた声でSIONが歌っている。
人間の声で、人間の言葉で、人間のことを歌っている。
この場に書く内容なのかどうか分からないけれども、どうしても書き残しておきたくなった。
君たちは一人ではないんだ。いいかな?
文学部と社会学部、あるいは社会学を志望する受験生がいて小論文や現代文の指導をしなくてはいけないところから、久しぶりに社会学と呼ばれる分野のものを読み続けている。
真木悠介『自我の起源』読了。このところ立て続けに彼の作品を読んだ。ちなみに「真木悠介」は社会学者・見田宗介のペンネームだ。岩波新書の『現代社会の理論』『社会学入門』、ちくまの『気流の鳴る音』。このあと、岩波から出ている『時間の比較社会学』、『存在の祭りの中へ』というタイトルの宮沢賢治論を続けて読もうと思っている。
国語や小論文が受験科目に入っている生徒がもっともっと腰を据えて勉強できれば、と思う。真木=見田の文章は本来、君たちこそが読むにふさわしいのだと思う。
しかし、ときに生徒には、目の前にある言葉の大半が、あるいは「がらくたの山」のように見えるのではないかと思うことがある。さもなければ数学などの問題と同じように、ただ試験問題として与えられ、読み、技術的に解答を作り上げ、問題を解き終わったらどこかに消え去ってしまうようなものに見えているのではないかと思うことがある。それはただ通過する情報の一欠片に過ぎないのかもしれない。
そこには私が負うべきこともある。けれども、いつからこれほど言葉軽くなったのだろう、軽く扱われるようになったのだろうとも思う。
数学の理論的なメモを「時間がない」と言いながら走り書きし、21歳で決闘にのぞみ死んだ天才数学者・ガロアのような存在は別としても、数学の入試問題に命がけのものなどはないだろう。
けれども現代文は違う。
例えば39歳で死んだ作家の高橋和巳は、どこかで「文章を書くことは、どこかで命を削るようなことなのです」と書いていた。西行は「ねがわくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と書き残した。
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」と書いた梶井基次郎は、西行のイメージを共有していたのかも知れない。
いずれも20年以上の前に読んだものだ。しかし私の中にこびりついて離れない言葉だ。記憶だけで今も書くことができる。
こびりついているのは、その言葉の向こうがわに、生きた人間の、生きていた人間の存在を感じとるからだ。言葉に託して去った存在があると思うからだ。その存在の感触に自分の何かが触発され、壊され、そして反応するからだ。そうした言葉は20年以上のときを隔ててもなお脈々と鼓動し続けることができる。
生徒たちを前にして思う。君たちがいま、手にしている言葉は、少なくともその一部は、そうしたものが込められている。そこには血が流れ、鼓動が脈打ち、君たちに託そうとする何かがある。
本来の現代文の読解は、そうしたものへ触れるための論理と想像力を求めるものなのだろうと思う。
そうしたものの一端に、少なくともその存在の感触に、君たちがどこかで触れることができるなら、と思う。
真木悠介=見田宗介もまたそうした想いを託している。
「自分にとって本当に大切である問題、その問題と格闘するために全青春をかけても悔いないと思える問題を手放すことなく、どこまでも追求しつづけることの中に、社会学を学ぶ、社会学を生きるということの<至福>はあります。どんな小さいレポートでも、どんなに乾燥した統計数字の分析でも、読む人はそのような仕事の中に<魂>を見ます。これは「魂のある仕事だ」ということを感じます。」(『社会学入門』岩波新書 P14)
「時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに、本当に切実な問いと、根柢を目ざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに、わたしはことばを届けたい。
虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言説は未だ崩壊していない、だからこの種子は逆風の中に播かれる、アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちのうちに、青青とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類のしようのない書物を世界の内に放ちたい。」(『自我の起源』岩波現代文庫 p207)
受け止めるべき主体の存在しない言葉は、そのまま宙にさまようしかない。私もこの場所でそれを受け止めたいと思う。でも真木=見田は、もっともっと若い世代に、それを託そうとしているのだと思う。
真木悠介『自我の起源』読了。このところ立て続けに彼の作品を読んだ。ちなみに「真木悠介」は社会学者・見田宗介のペンネームだ。岩波新書の『現代社会の理論』『社会学入門』、ちくまの『気流の鳴る音』。このあと、岩波から出ている『時間の比較社会学』、『存在の祭りの中へ』というタイトルの宮沢賢治論を続けて読もうと思っている。
国語や小論文が受験科目に入っている生徒がもっともっと腰を据えて勉強できれば、と思う。真木=見田の文章は本来、君たちこそが読むにふさわしいのだと思う。
しかし、ときに生徒には、目の前にある言葉の大半が、あるいは「がらくたの山」のように見えるのではないかと思うことがある。さもなければ数学などの問題と同じように、ただ試験問題として与えられ、読み、技術的に解答を作り上げ、問題を解き終わったらどこかに消え去ってしまうようなものに見えているのではないかと思うことがある。それはただ通過する情報の一欠片に過ぎないのかもしれない。
そこには私が負うべきこともある。けれども、いつからこれほど言葉軽くなったのだろう、軽く扱われるようになったのだろうとも思う。
数学の理論的なメモを「時間がない」と言いながら走り書きし、21歳で決闘にのぞみ死んだ天才数学者・ガロアのような存在は別としても、数学の入試問題に命がけのものなどはないだろう。
けれども現代文は違う。
例えば39歳で死んだ作家の高橋和巳は、どこかで「文章を書くことは、どこかで命を削るようなことなのです」と書いていた。西行は「ねがわくば花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と書き残した。
「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」と書いた梶井基次郎は、西行のイメージを共有していたのかも知れない。
いずれも20年以上の前に読んだものだ。しかし私の中にこびりついて離れない言葉だ。記憶だけで今も書くことができる。
こびりついているのは、その言葉の向こうがわに、生きた人間の、生きていた人間の存在を感じとるからだ。言葉に託して去った存在があると思うからだ。その存在の感触に自分の何かが触発され、壊され、そして反応するからだ。そうした言葉は20年以上のときを隔ててもなお脈々と鼓動し続けることができる。
生徒たちを前にして思う。君たちがいま、手にしている言葉は、少なくともその一部は、そうしたものが込められている。そこには血が流れ、鼓動が脈打ち、君たちに託そうとする何かがある。
本来の現代文の読解は、そうしたものへ触れるための論理と想像力を求めるものなのだろうと思う。
そうしたものの一端に、少なくともその存在の感触に、君たちがどこかで触れることができるなら、と思う。
真木悠介=見田宗介もまたそうした想いを託している。
「自分にとって本当に大切である問題、その問題と格闘するために全青春をかけても悔いないと思える問題を手放すことなく、どこまでも追求しつづけることの中に、社会学を学ぶ、社会学を生きるということの<至福>はあります。どんな小さいレポートでも、どんなに乾燥した統計数字の分析でも、読む人はそのような仕事の中に<魂>を見ます。これは「魂のある仕事だ」ということを感じます。」(『社会学入門』岩波新書 P14)
「時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに、本当に切実な問いと、根柢を目ざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに、わたしはことばを届けたい。
虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言説は未だ崩壊していない、だからこの種子は逆風の中に播かれる、アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちのうちに、青青とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類のしようのない書物を世界の内に放ちたい。」(『自我の起源』岩波現代文庫 p207)
受け止めるべき主体の存在しない言葉は、そのまま宙にさまようしかない。私もこの場所でそれを受け止めたいと思う。でも真木=見田は、もっともっと若い世代に、それを託そうとしているのだと思う。