since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
幼児教育や児童教育の方法論についてはさまざまな議論が立てられている。
中学、高校の学習についてもあるけれども…
よく「無限の可能性」なんていうけれども、現場でのたうち回るものとしてはそう簡単には口にできない。いや、極めて有限な可能性しか無いのではないかと思うことだってある。
ただ、ときどき劇的な変化をする生徒がいる。
そうした劇的な変化の可能性は誰にでもあるのだろうか。いったいどういうメカニズムで起こるのか、今ひとつわからない。
第二言語の獲得についての研究は少し参考になる気がするけれども…。
研究書が非常に少ない気がする。
中学、高校の学習についてもあるけれども…
よく「無限の可能性」なんていうけれども、現場でのたうち回るものとしてはそう簡単には口にできない。いや、極めて有限な可能性しか無いのではないかと思うことだってある。
ただ、ときどき劇的な変化をする生徒がいる。
そうした劇的な変化の可能性は誰にでもあるのだろうか。いったいどういうメカニズムで起こるのか、今ひとつわからない。
第二言語の獲得についての研究は少し参考になる気がするけれども…。
研究書が非常に少ない気がする。
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G・バシュラールの科学哲学における「認識論的障害」とその「認識論的切断」は、通常の学習の中でも課題になる。
学力は、結局のところ、その人の内部にしか存在しないから、その状態を把握するのはそれほど簡単なことではない。テストや様々な角度から測定をしようとしても、測りきれるものではない。ましてやそれが将来においてどう変化するなどということは誰にもわからない。わかるかもしれないが、そうしたことを研究したものをまだみたことがない。
内部にしか存在しない学力を意識化・対象化しようとする生徒とそうではない生徒がいる。講師は把握しようとするけれども、それも生徒本人が自分で把握しようとしていなければ、それほど役に立たない。そもそも把握することが困難になるし、ある程度、その論理、傾向、メカニズムなどをつかみ出して指導方針・学習方針をたてても、その前提になる認識が生徒本人と一致していなければ、つまり問題意識を共有していなければ、その「正しい方針」も外在的なものにしかならず、たいした意味を持たない。
本人にやる気があって、なおかつ困難に直面することもある。
それが例えば数学でいえば◯◯が弱いとか、英語の文法力が不足しているとかそういう言葉で捉えることができるようなことがらであれば、それほど問題ではない。その課題に対する対処はあるし、解決は必要な作業量も含めてある程度推測がつく。
問題は、学習や思考のメカニズムや傾向というようなものをたださないといけない場合だ。この点にまで踏み込まないといけない場合は、◯◯をいつまでに何回くらいやる、とか、まずは△△をやってそれからこういう問題を解いて…というような方針形成ができない。
あらゆる局面で、あらゆる単元で、その「メカニズム」や「傾向」とのたたかいになる。端的にいえば、「壊れている」というべき状態の場合がある。
あることをしらないとして、それは習ってもいるし、テキストにも書いてある。
そしてそれを勉強もしている。
ではなぜ「知らない」という状態が生みだされるのか。
このことが解決されないかぎり、量的拡大がもたらすものはただの疲労だけになってしまう。
この「知らない」は、空白ではない。空白なのであれば、単純に勉強すればいいだけのことがけれども、空白ではない「知らない」状態は単純に勉強しても解決しない。
バシュラールは、科学の飛躍的進歩の局面において、空白としての中世的な「無知」にたいして、「正しい科学的知識」を注入したのではなかったし、それはできないとしている。その「無知」は空白ではない。実際、ガリレオは逍遙学派(アリストテレス派)との熾烈なたたかいを繰り広げざるを得なかった。それは現在から見れば巨大な「予断・偏見・誤解・誤謬」の織りなす構築物であって、ローマ・カソリックとアリストテレスの権威を背景に強固に構築されていた。それをバシュラールは「認識論的障害」という。だから「近代科学的知見」は空白に注入されたものではなく、まずは、その認識論的障害を破砕することが必要になった。つまり「認識論的切断」が必要になった。誤った認識論的な仕組み、蓄積物を破壊しないかぎり新規の認識を獲得することができない。
科学史と科学哲学にたったバシュラールの論は、ほとんど日々の学習の論でもありうる。
学力は、結局のところ、その人の内部にしか存在しないから、その状態を把握するのはそれほど簡単なことではない。テストや様々な角度から測定をしようとしても、測りきれるものではない。ましてやそれが将来においてどう変化するなどということは誰にもわからない。わかるかもしれないが、そうしたことを研究したものをまだみたことがない。
内部にしか存在しない学力を意識化・対象化しようとする生徒とそうではない生徒がいる。講師は把握しようとするけれども、それも生徒本人が自分で把握しようとしていなければ、それほど役に立たない。そもそも把握することが困難になるし、ある程度、その論理、傾向、メカニズムなどをつかみ出して指導方針・学習方針をたてても、その前提になる認識が生徒本人と一致していなければ、つまり問題意識を共有していなければ、その「正しい方針」も外在的なものにしかならず、たいした意味を持たない。
本人にやる気があって、なおかつ困難に直面することもある。
それが例えば数学でいえば◯◯が弱いとか、英語の文法力が不足しているとかそういう言葉で捉えることができるようなことがらであれば、それほど問題ではない。その課題に対する対処はあるし、解決は必要な作業量も含めてある程度推測がつく。
問題は、学習や思考のメカニズムや傾向というようなものをたださないといけない場合だ。この点にまで踏み込まないといけない場合は、◯◯をいつまでに何回くらいやる、とか、まずは△△をやってそれからこういう問題を解いて…というような方針形成ができない。
あらゆる局面で、あらゆる単元で、その「メカニズム」や「傾向」とのたたかいになる。端的にいえば、「壊れている」というべき状態の場合がある。
あることをしらないとして、それは習ってもいるし、テキストにも書いてある。
そしてそれを勉強もしている。
ではなぜ「知らない」という状態が生みだされるのか。
このことが解決されないかぎり、量的拡大がもたらすものはただの疲労だけになってしまう。
この「知らない」は、空白ではない。空白なのであれば、単純に勉強すればいいだけのことがけれども、空白ではない「知らない」状態は単純に勉強しても解決しない。
バシュラールは、科学の飛躍的進歩の局面において、空白としての中世的な「無知」にたいして、「正しい科学的知識」を注入したのではなかったし、それはできないとしている。その「無知」は空白ではない。実際、ガリレオは逍遙学派(アリストテレス派)との熾烈なたたかいを繰り広げざるを得なかった。それは現在から見れば巨大な「予断・偏見・誤解・誤謬」の織りなす構築物であって、ローマ・カソリックとアリストテレスの権威を背景に強固に構築されていた。それをバシュラールは「認識論的障害」という。だから「近代科学的知見」は空白に注入されたものではなく、まずは、その認識論的障害を破砕することが必要になった。つまり「認識論的切断」が必要になった。誤った認識論的な仕組み、蓄積物を破壊しないかぎり新規の認識を獲得することができない。
科学史と科学哲学にたったバシュラールの論は、ほとんど日々の学習の論でもありうる。
つくづく思うことがある。「学習する」とある程度、その増加率はどうであるかは別にして、ある程度、学力がついてくるものだと私もどこかで思っていたかもしれない。
けれども、それは一つの幻想だった。
学力を構築していく学習があるように、学力を破壊していく学習もまた厳然として存在する。
学習観を歪め、教科の論理を破戒し、例えば数学のなにおいて、数学の問題を使って、数学ではない何かを行い続けていくとき、その行為は多分、本来の数学のあり方を破壊していく。そうした事例はこの数年とっても枚挙にいとまがない。その数年の蓄積と闘わなくてはいけないことがある。厳しい、本当に厳しい闘いになる。その厳しさは何よりも生徒自身に、それまでのあり方を徹底的に突き崩し、覆すことを要求する激しさのことだ。これまでのあり方を、残酷なまでに徹底的に否定し、木っ端微塵にしなければいけない時がある。そうした厳しさだ。その時指導は、むき出しの人間と人間の格闘の次元になだれ込んでいく。それは学習指導などというキレイ事の世界ではない。
けれども、それは一つの幻想だった。
学力を構築していく学習があるように、学力を破壊していく学習もまた厳然として存在する。
学習観を歪め、教科の論理を破戒し、例えば数学のなにおいて、数学の問題を使って、数学ではない何かを行い続けていくとき、その行為は多分、本来の数学のあり方を破壊していく。そうした事例はこの数年とっても枚挙にいとまがない。その数年の蓄積と闘わなくてはいけないことがある。厳しい、本当に厳しい闘いになる。その厳しさは何よりも生徒自身に、それまでのあり方を徹底的に突き崩し、覆すことを要求する激しさのことだ。これまでのあり方を、残酷なまでに徹底的に否定し、木っ端微塵にしなければいけない時がある。そうした厳しさだ。その時指導は、むき出しの人間と人間の格闘の次元になだれ込んでいく。それは学習指導などというキレイ事の世界ではない。
ソシュールの言語学を勉強しなおしている。もっともソシュールの『一般言語学講義』はソシュールが書いたものではなく、彼の思想とかなり隔たりがあることはすでに丸山圭三郎やゴデルの作業ではっきりしているので、私はもっぱら丸山圭三郎を通してソシュールを読んできた。
あらためてソシュールの思想の挑戦していた課題の困難さ、その射程距離の長さを思い知る。
<メモ>
1) 論理は、語の連辞関係・連合関係の対比における連辞関係の上に存在している。論理を論理として釣らぬことができない場合は、連辞関係が非常に弱く、連合関係に支配された語の選択になっているように思える。
2) 西林克彦の学習理論を踏まえるならば、学習は基本的にメタレベルの言語と思考によって成立することになるだろう。メタレベルの思考のためにはそのための言葉が必要になる。
3) 言語における否定性。あらゆる言語は対比的な、あるいは相互に否定的な関係におかれている。正確には、相互否定的な関係が言葉の基本であって、言葉があって、それが相互否定的な関係を取り結んでいるのではない。
概念を概念として把握するためには、必ず、◯◯ではない、というかたちで捉えられてなくてはならないということになるだろうか。
あらためてソシュールの思想の挑戦していた課題の困難さ、その射程距離の長さを思い知る。
<メモ>
1) 論理は、語の連辞関係・連合関係の対比における連辞関係の上に存在している。論理を論理として釣らぬことができない場合は、連辞関係が非常に弱く、連合関係に支配された語の選択になっているように思える。
2) 西林克彦の学習理論を踏まえるならば、学習は基本的にメタレベルの言語と思考によって成立することになるだろう。メタレベルの思考のためにはそのための言葉が必要になる。
3) 言語における否定性。あらゆる言語は対比的な、あるいは相互に否定的な関係におかれている。正確には、相互否定的な関係が言葉の基本であって、言葉があって、それが相互否定的な関係を取り結んでいるのではない。
概念を概念として把握するためには、必ず、◯◯ではない、というかたちで捉えられてなくてはならないということになるだろうか。
かつてなく状況が厳しい。ちょっと言葉ではうまく表現できないくらいの厳しさだ。
大至急、指導と学習の基本的なあり方の構築・再構築の文書を書き上げようと思う。これを描き上げたからといって課題が解決するわけではない。けれども、課題の明確化、なすべきことの対象化のための基準にはなるかもしれない。
エスキース的に述べるならば、
(1) 広い意味での国語力、言語能力の課題
抽象的な概念構成ができないこと
言語についての扱いの粗雑さ
センテンスのレベルでの解体 文章を忠実に読むことができなくなっている。
総じて、鋭角的に言えば「言葉の解体」とでも言うべき状況に直面している。様々な学習理論、認知心理学、学習心理学などの本を読んできたが、がっちり噛みあうものがあるとはいえない。しょせん、机上の空論だと思う。生身の格闘はそれほど生やさしいものではない。
(2) 抽象的な概念構成ができないことと関わるが、知識の階層的な構造がつくられないこと。
この点については、西林克彦氏の学習論が参考になる。本質と現象の間の媒介項になるべき知識が欠落し、本質的規定を現実的なものに適応する回路が断ち切られている。
しかしこのことは西林氏が述べるように、その中間項を適切に埋めることで解決すrのか、といえば私は現場感覚で「しない」と思う。なぜなら、そのことは、ただ<中間項が欠落している=空白になっている>ことを意味するのではなく、G・バシュラールの言葉を借りるならば、認識論的障害が横たわっているからであり、それはこれまでの「学習」によってつくりだれ、積み上げられ、確固とした一つの構築物となっているからだ。だからいったんはその破砕に着手しなくてはならない。しかしその激しい痛みを伴う過程を、いったいどれだけの生徒がたどりきれるか、現時点で私にはわからない。しかし間違いなく、そこに着手するほかなく、また生徒がその道筋を歩き尽くせるのだと信じることからしかはじめることができないだろうと思う。
(3) 論理の解体
(1)、(2)などとも重なるが、論理というものが座らない。ある私立進学校は最近、和田秀樹氏の本を推奨したりしているらしい。私も数冊は読んだ。そこから一定の論の変化があるかもしれないが、彼や彼のような学習観が作り出している現実は非常に深く大きな問題となっている。
端的に「暗記」で全てを賄おうとするあり方だ。
確かに記憶を広い意味でとるならば、論理なども記憶されている限りで活用されるものだろう。しかし今問題になっているのはそういうことではない。
たとえば数学が端的だ。
数学は、一定の公理や定義があり、そこから演繹的に体系が構築されてくる。そしてそこには一体の階層的な構造がある。それが暗記学習によって破壊されている。
簡単にいえば、等式の扱い、特にその同値変形は、それ自身一つの課題ではあるが、一定のレベルであれば半ば無意識のうちに、あるいは自動機械のように処理が行われなくてはならない。3x=x+2であれば、別段考えることもなくX=1とならないといけない。x+y=3をみたら、もうひとつ式がないと解が定まらないな、と思わないといけない。そうしたことをここでは「論理」といっている。こうした「論理」はいわば「分析・判断・方針→立式」という飛躍をはらんだドラマを終結に向けて運んでいく自動機械のようなものだが、それが記憶によって媒介されている。目の前の式をみて、その式が許容する限りでの式変形(この許容する限りでの式変形というところに数学の論理が顔を出すのだが)を行うのではなく、どこからか「記憶」と「イメージの連鎖」によって次の式が接続される。だからそこには数学の持つ論理関係は予め存在しない。
問題は、ここでそうしたことが一つの固定した形としてつくりあげられてしまってることだ。そうなると数学の問題を解いているのに、それが数学に似た別の何ものかになってしまう。こうした「学習」を数年積み上げてくるということは、数年かけてその生徒の内部の数学、数学的論理を破戒し続けてくるということになる。この結果は極めて深刻なものになる。
(4) 具体性の喪失 抽象性・概念性の形骸化
(3)の系として出てくる事柄がこの「具体性の喪失」だ。同時に抽象的概念の形骸化だ。
直接的には、「目の前に実在している対象」に内在している論理をつかみ出すのではなく、それに外在的にどこからか別のものをもってきて接続することによって生じる。目の前の対象は分析もされず、検討もされない。だからそのほんとうの姿は目に映っていてもそれとして認識されていない。
このことは数学で起こるし、理科でも一般的に起こっている。あるいは英語や国語などでもそうだ。目の前にあるもの、そのものを分析せず、目の前にあるものをいわば検索タグとして記憶のどこからか連想したものが引き出されてくる。そのとき、生徒は目の前のものを見ながらではなく、視線が対象からはずれ、そして「こうですか?」と言い出す。
それは記憶だ。目の前のものの論理的展開、論理的帰結ではない。また、だから正誤の判断が講師の顔色によってなされることになる。
こうなったらそれは学習ではなくなってしまう。
(5) 問題を解くこと、理解すること。
対象の持つ論理の階層構造と問題演習による構造の破壊。
(6) 言葉のリズムの喪失。
(7) 助詞、主節、主語-述語の欠落。
(8) 学問的な言葉=非日常的言語と日常言語の区別の希薄化。
以下は、各論的に
(1) 単語。「赤字だけ覚える」論。→日本語と英語の1対1対応化と意味のズレの発生。
(2) 現代文の分析能力
(3) 数学。問題のカテゴライズ。
(4) 学習内容の切り縮め。負荷の軽減への志向。
大至急、指導と学習の基本的なあり方の構築・再構築の文書を書き上げようと思う。これを描き上げたからといって課題が解決するわけではない。けれども、課題の明確化、なすべきことの対象化のための基準にはなるかもしれない。
エスキース的に述べるならば、
(1) 広い意味での国語力、言語能力の課題
抽象的な概念構成ができないこと
言語についての扱いの粗雑さ
センテンスのレベルでの解体 文章を忠実に読むことができなくなっている。
総じて、鋭角的に言えば「言葉の解体」とでも言うべき状況に直面している。様々な学習理論、認知心理学、学習心理学などの本を読んできたが、がっちり噛みあうものがあるとはいえない。しょせん、机上の空論だと思う。生身の格闘はそれほど生やさしいものではない。
(2) 抽象的な概念構成ができないことと関わるが、知識の階層的な構造がつくられないこと。
この点については、西林克彦氏の学習論が参考になる。本質と現象の間の媒介項になるべき知識が欠落し、本質的規定を現実的なものに適応する回路が断ち切られている。
しかしこのことは西林氏が述べるように、その中間項を適切に埋めることで解決すrのか、といえば私は現場感覚で「しない」と思う。なぜなら、そのことは、ただ<中間項が欠落している=空白になっている>ことを意味するのではなく、G・バシュラールの言葉を借りるならば、認識論的障害が横たわっているからであり、それはこれまでの「学習」によってつくりだれ、積み上げられ、確固とした一つの構築物となっているからだ。だからいったんはその破砕に着手しなくてはならない。しかしその激しい痛みを伴う過程を、いったいどれだけの生徒がたどりきれるか、現時点で私にはわからない。しかし間違いなく、そこに着手するほかなく、また生徒がその道筋を歩き尽くせるのだと信じることからしかはじめることができないだろうと思う。
(3) 論理の解体
(1)、(2)などとも重なるが、論理というものが座らない。ある私立進学校は最近、和田秀樹氏の本を推奨したりしているらしい。私も数冊は読んだ。そこから一定の論の変化があるかもしれないが、彼や彼のような学習観が作り出している現実は非常に深く大きな問題となっている。
端的に「暗記」で全てを賄おうとするあり方だ。
確かに記憶を広い意味でとるならば、論理なども記憶されている限りで活用されるものだろう。しかし今問題になっているのはそういうことではない。
たとえば数学が端的だ。
数学は、一定の公理や定義があり、そこから演繹的に体系が構築されてくる。そしてそこには一体の階層的な構造がある。それが暗記学習によって破壊されている。
簡単にいえば、等式の扱い、特にその同値変形は、それ自身一つの課題ではあるが、一定のレベルであれば半ば無意識のうちに、あるいは自動機械のように処理が行われなくてはならない。3x=x+2であれば、別段考えることもなくX=1とならないといけない。x+y=3をみたら、もうひとつ式がないと解が定まらないな、と思わないといけない。そうしたことをここでは「論理」といっている。こうした「論理」はいわば「分析・判断・方針→立式」という飛躍をはらんだドラマを終結に向けて運んでいく自動機械のようなものだが、それが記憶によって媒介されている。目の前の式をみて、その式が許容する限りでの式変形(この許容する限りでの式変形というところに数学の論理が顔を出すのだが)を行うのではなく、どこからか「記憶」と「イメージの連鎖」によって次の式が接続される。だからそこには数学の持つ論理関係は予め存在しない。
問題は、ここでそうしたことが一つの固定した形としてつくりあげられてしまってることだ。そうなると数学の問題を解いているのに、それが数学に似た別の何ものかになってしまう。こうした「学習」を数年積み上げてくるということは、数年かけてその生徒の内部の数学、数学的論理を破戒し続けてくるということになる。この結果は極めて深刻なものになる。
(4) 具体性の喪失 抽象性・概念性の形骸化
(3)の系として出てくる事柄がこの「具体性の喪失」だ。同時に抽象的概念の形骸化だ。
直接的には、「目の前に実在している対象」に内在している論理をつかみ出すのではなく、それに外在的にどこからか別のものをもってきて接続することによって生じる。目の前の対象は分析もされず、検討もされない。だからそのほんとうの姿は目に映っていてもそれとして認識されていない。
このことは数学で起こるし、理科でも一般的に起こっている。あるいは英語や国語などでもそうだ。目の前にあるもの、そのものを分析せず、目の前にあるものをいわば検索タグとして記憶のどこからか連想したものが引き出されてくる。そのとき、生徒は目の前のものを見ながらではなく、視線が対象からはずれ、そして「こうですか?」と言い出す。
それは記憶だ。目の前のものの論理的展開、論理的帰結ではない。また、だから正誤の判断が講師の顔色によってなされることになる。
こうなったらそれは学習ではなくなってしまう。
(5) 問題を解くこと、理解すること。
対象の持つ論理の階層構造と問題演習による構造の破壊。
(6) 言葉のリズムの喪失。
(7) 助詞、主節、主語-述語の欠落。
(8) 学問的な言葉=非日常的言語と日常言語の区別の希薄化。
以下は、各論的に
(1) 単語。「赤字だけ覚える」論。→日本語と英語の1対1対応化と意味のズレの発生。
(2) 現代文の分析能力
(3) 数学。問題のカテゴライズ。
(4) 学習内容の切り縮め。負荷の軽減への志向。