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since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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 物ごと、事物と正対すること。言葉の向こうには人間がいる。数式の向こうには何事かの現象が存在する。いやそれだけではないな。
 言葉の向こうにはその言葉を書き記した人間がおり、その人が見つめていた事物が、世界が、あるいはさらに多くの人々の何かが存在する。数式の向こうには、例えば物理学では物の理が、そのものを見つめる人間が、時には世界と激しい緊張状態におかれていた何者かが存在する。それらは時に生命を賭して吐き出され、ここまで辿り着く。そしていま眼にすることができているものは、何かを伝えようと書き記された言葉の、概念の、時には数式の、氷山の一角とすら言えないような極小部分に過ぎない。

 もし「教育」ということに意味を求めるのであれば、そうした向こう側への跳躍力を作り出すことだろうと思う。それは想像力といっていい。

 3・11福島をへて、より強くそう思うようになった。
 物の理を欠いたデータ。その捏造的な修正を行なっても恥じることのない意識は、データがただのデータに、数字がただの数字に、文字がただの文字にしか見えないことによって可能にさせられている。
 データの捏造が目立つようになってきたことについて、数年前に亡くなった高木仁三郎氏は技術者の倫理の喪失として捉えた。その倫理は<モノ>に忠実であること、あるいは<モノ>の手触りに近いような感触に忠実であることに立脚するのだと受け取った。そしてそうした感覚が失われてきているのだと書いている。また、「原発危機と東大話法」を書いた安冨歩氏は、その話法を「傍観者の論理、欺瞞の言語」とサブタイトルに書いた。
 実は同じことを述べているように思える。そして受験の世界には、そうした論理と言語が満ち満ちているとつくづく思う。様々な教科に「受験の◯◯」という形容が冠され、どこにも本来存在しない独特の内容が作られていく。そうしたテキストが山のように発売され、例えばその教科のあり方から遠く離れた、手軽で簡単に「点数がとれる」というものがもてはやされ、よく売れる。それは認め難く、容認しがたい光景だ。負ける訳にはいかないと強く思う。
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 京都大学入試の現代文を読んでいる。
 2011年、長田弘。「生きるとは、そのようにして、日々のいとなみのうちにみずからの<生きるという手仕事>の意味を開いてゆくという、わたしの行為なのだ」。
 2010年、津島佑子。「子どものころの世界は、音とにおいと手触りとでできあがっているということなのだろうか。」「思えば、私は物語の声を求めつづけていた、ということになるのだろうか」。

 <生きるという手仕事>。そして「手触りと物語の声」。

 奥行きに満ちた言葉がひとつの世界を立ち上げる。そうした文章だ。

 傍線部の説明をするために、テクストの織りなす言葉の糸をたどってゆくという作業を無機質に遂行するような入試現代文の指導やそうした参考書・問題集に辟易とする。


 文章を読む。言葉をたどる。人間から人間への、しかもその少なくない場合、一方の人間がすでにこの世にいない中で繰り広げられる、何事かを受け取ろうとする行為であるはずだ。それはそこに投影する自己の姿を見出すことであるかもしれない。けれども、読むことの意味は、それが他者を媒介に、他者の言葉を媒介に行われるところにあるはずだ。
 私は、言葉の向こうに肉声を聞き取りたい。一つの声を聞き届けたい。聞かれることなく、取りこぼされる人間の何かがそこに残されることを恐れる。むろん、それは必ず残る。すべてを聞き尽くすことなどできることではない。けれども、やはり、その聞くことのできなかった声にさらに耳をそばだたせたい。
 学ぶということの意味の一端は、すくなくともそういう行為の中にあるのだと信じる。それはひとつの精神史を形づくることになるのだと思う。

 現代文の入試の中で損なわれていくことがある。あるいは、その指導の中で壊されてゆくことがある。読むことによって見えなくなることがあるように思えてならない。読むことによって聞こえなくなることがあるように思えてならない。そうした恐れを日々抱く。

 長田弘の「手仕事」に辿りつけるのか。津島佑子の「肉声と手触り」に触れることができるのか。その一端に、微かにでも触れる読解は、キレイに約束事を守った解答よりも遥かに意味があるはずなのだけれども。
 読むこと。問題を解くために読むのではなく、読むために、読みを深めるために問題を解くこと。そこを転倒しないこと。

 文字は紙に印刷されたインクにすぎない。
 けれども、その向こう側に書き手がおり、書き手の意志がある。
 行間には何もない。けれども、言葉と言葉の関係の中に、書き手は何かを託した。その言葉と、関係付けられた言葉に異を唱えること、賛同すること、別様の解釈をすること。そうした自由と権利を読み手は持つ。けれども、関係自体をつくりかえ、差し替える権利は誰にもない。言葉が織り出すテクストを作り替えてしまう権利は誰にもない。

 読むことは自分を照らし出す。どう読んだのか、ということの中に、そのように読む自分の姿が浮かび上がる。

 どういう意味を文章に見出すのか、ということと、どういう関係がどこに見いだせるのかを区別することは、自己と他者を峻別することと同じだ。他者が存在することは、思うままにはならないものとの出会いがあるということだ。その思うに任せないことを噛み締めるところに現代文を読む意味がある。
 そこは他者との緊張感に満ちた出会いの場であり、同時に意識されていなかった自分との遭遇の場でもある。
 いま、福島第一原子力発電所の事故の収束のめどが立たない状況の中で、さまざまな議論が行われている。反対の人の中にも、反原発と脱原発の人がいる。原子力発電は原則的に推進すべきで、だから安全を、という人もいる。ただ以前のようにほとんど無条件に「絶対安全だし賛成」という人は影を潜めている。

原子力の問題は実は私にとってはかなり大きなテーマだった。いまなされている議論について、私は一応、物理学を志した人間だけれども、みていると、到底ありえないような論も少なくない。

「不安にさせるのか、風評被害を生むのではないか」ということばと、「いや風評以前に事実でしょう」ということばがたたかわれる。
原子力発電を止めたら電気が足りなくなるじゃないか、という人がいて、そうではないという人がいる。
100mSvまでは安全だという人がいて、いや1mSvでも危険はゼロにはならないんだ、という人もいる。
内部被曝は科学的に立証されていないから外部被曝のほうが危険という意見もあれば、立証されていないが内部被曝のほうが危ないのではないかという意見もある。
原子力は地球温暖化の原因とされるCO2を出さないから、環境を考えると原子力が必要という人が入れば、原子力のほうが環境を破壊するという人もいる。
コストにしても正反対の見解がぶつかりあっている。


ただどの意見も、政府や東京電力が事実とデータを充分に提供していると思っている人は少ない。


ものごとを学ぶということは、テストの問題を解けるようになることではない。
自然科学にしても社会科学や人文学にしても、何事かを学ぶことは、そのままの自分の目では見えないもの、見えないこと、耳にすることができない何か、触れることができない何ものか。それを見つめ、聞きとどけ、そして触れること、その力を養うことだろう。
さまざまな情報、見解が錯綜するからこそ、自分の目で、耳で、感触でものごとにふれ、その奥に潜む何か確かめる力が必要だと思う。

それは見えないものを見ることかもしれないし、見えていたことの中に別の何かを見出すことかもしれない。

例えばニュートン。(私自身はケプラーがすごいなと思うのだけれども)
よく、りんごが落ちるのを見て万有引力の法則を見つけた、というような言い方をされることがある。ちょっと事実とは違うらしい。
しかしニュートンの凄さは、いや凄まじさといったほうがいいかもしれないが、それは「月などの天体の運動」といや目の前で起こっている「りんごが落ちる」という運動。この日常的な感覚では全く別のものにみえる現象を、同じひとつの現象、慣性の法則と作用・反作用の法則、そしてたった一つの方程式。わずかこれだけの法則に還元して捉えてしまったことにあるのだと思う。ポトンと落ちるりんごと地球の回りまわっているように見える月がおなじに見える。その凄まじさはちょっと想像できない。

そうしたニュートンのような視界は、誰かに与えられたものを、与えられたように見ているだけでは絶対に生み出されない。
社会科学でも人文学でも同じだ。
経済学・経済学史の専門家だった内田義彦氏は、社会科学における概念を「ウルトラアイ」と称した。つまり、その概念を身につけることで<モノ>=社会を見る。直接にモノをみるのではなく、言葉でものを見る。ウェーバーを読むのは、ウェーバーが何をいっているのかを知るためではなく、ウェーバーのように社会が見えるようになることだ。内田氏は概略そのように述べている。だからひとつの概念を獲得することは、それまで見えなかった一つの視界を得ることだ。そうしたことがとても大切になっていると思う。

マスメディアやインターネット、また最近、いろいろともてはやされているツィッターなどのソーシャルメディア。そうした中で、流れている情報量は桁違いに多くなった。けれども、それはすべての情報が流通していることを意味しているわけでもないようだ。当然、その流れている情報にも様々なものがある。
正しい情報の扱い方を求めたり、その開示を求める人達もいる。それはそれで間違っていないと思う。
けれども、どんなに目の前に情報があり、データがあっても、それを読む目が備わっていなければ、ただの記号にすぎない。
わたしには膨大な情報の流通が、逆にものごとを読み取る力を奪っているように見えることがある。


これからは君たちの時代だ。けれども、一つの時代が、自分たちの時代だと言えるようになるためには、ただ、その時代の中で生きているだけでは足りない。その時代の根っこにどのような力が働き、どこに向かおうとしているのか。それについてどのように自分は考え、どういう態度を取るのか。そうしたことがあって、「その時代」は初めて「自分(たち)の時代」になる。だれかがすべてを決めた時代は、そのとき生きている人達にとって自分たちの時代とはならないだろう。

君たちが、自分たちの目で、感覚で、流れている記号、言葉、データの向こう側の何かを掴み取らなくてはいけない。本当は、いま学んでいることがそうした力の土台を作ることなのだと思う。
原子力についてわたしの意見をここでは述べないが、けれども、ある意味ですべての人が、それは高校生の君たちも含めて、どうするのか考えることが求められている時代なのだと思う。福島の高校生たちは、いやもおうもなく考えなくてはならなくなっているのだし。それに実際、放射線や放射能は眼に見えないし、匂いもしない。全く知らないあいだに被曝しているんだから。
[  05/18  言葉の力  ]
 ずっと放置してきたブログ。書くべきことはたくさんあるような気がするけれども、なかなかまとまって書けない。なので、まとめて書こうと思わないで、気楽に書くことにします。


最近、勉強するというか、学ぶというか、そういうことの基本がとても大きく崩れてきているような気がすることがよくある。状況や原因を追求していったら研究論文が一本書けそうな気がするくらい、そのくらい強い違和感を感じることがある。

学ぶことの半ばは「言葉」を覚えることのように思う。言語学的な議論をここでやろうとは思わないけれども、「言葉」はただコミュニケーションの媒介ではなく、「モノを見るため」のものであり、「思考するため」のものだと思う。「言葉」の中にはすでに「歴史」がつまっている。その国の文化がつまっている。だから英語を学ぶことは、本当は、「英語圏の文化や思考方法」まで学ぶことなのだと思う。例えば英語では「驚く」が「受動態」のようにして表される。明らかに日本語と違う。そこにはきっと深い歴史的・文化的な違い、あるいは自然環境などのあり方の違いなどが横たわっているのだと思う。

けれども、とりあえず日本語の話。

ここで言っている「言葉」は日常会話のものではない。勉強や学問と言われているものは、日常会話の言葉とちょっと違う言葉で行われている。そういう言葉を「概念」と言ってもいいのかもしれない。

経済学史の研究者だった内田義彦は、その「概念」を顕微鏡のようなものに例えた。普段の目では見えないものを見えるようにするものとしての言葉。日常の言葉で見えるものは、日常の世界だとすれば、日常の世界から離れた言葉でしか、日常ではない世界は捉えられない。見えてこない。そういう事だろうと思う。
例えばGDPとかGNP。それは日常の言葉ではみえてこない経済的な実体をさしている。ひとつの言葉=概念が生み出されることは、一つのいままで見えなかったなにかが見えてくることとほぼ同じだと思う。

そうした言葉をまず学んでほしい。
内田義彦は社会科学について述べているけれども、実は自然科学でも同じだと思う。

例えば力学的エネルギーの保存則と運動量の保存則。高校の物理で両方とも習う。初歩的な法則のように思われているかもしれない。けれども、ことはそれほど簡単ではなかった。実は、物体が他に影響を与える能力、運動の強さと言ってもいいのだろうか(これは日常的な言葉ですよね?)、これをとらえようとして、それが質量に比例するのは異論がなかった(=重たいほど影響力は大きい)けれども、(質量)☓(速度)に比例するとするデカルト、(質量)☓(速度の2乗)に比例するとするライプニッツ以来、150年ほども論争が続く。それが物体が他の物体に、「どういう影響をあたえるのか」ではっきり区別して、前者が運動量、後者が運動エネルギーと次元の異なる二つの量として捉えられるようになってはじめて決着がついた。
物理は「数理科学」として確立したから数学的な裏付けと「概念」がいったいになって提示されるけれども、「言葉=概念」抜きの数式は成り立たない。

そうした「言葉」をもっと大切にしてほしい。もっともっと大きい存在なのだと思う。言葉がなければ、ものも見えないし、思考することも難しいのだから。高校の勉強も、あるいは受験生の勉強も、その入口に立っているのだから。


これはいわゆる学問という世界ではないけれども、例えばヘレン・ケラーの逸話はひとつの言葉を獲得することのとてつもない大きさを示しているような気がする。他にもそういう例はある。
ずっと以前に森崎和江という人の本を読んだことがある。多分、1950年代に九州には炭鉱がたくさんあって、そこには学校にも行けず、字も知らない人たちがたくさんいた。そこに識字学校があった。字を覚えるための大人用の学校だ。
そこでの一人のおばあさんの話がとても印象的だった。
そのおばあさんはもう60歳過ぎ(もっと上だったかもしれない)。文字というものに触れる機会がなく生きてきた。そのおばあさんが、ある時、「朝」という漢字を教えてもらい、覚えた。そしてそのおばあさんは、次の日の朝、日の出をみてぼろぼろ泣いたそうだ。「朝」という文字をはじめて覚え、生まれて初めて、朝日がこんなにも美しいものだったのかと感じて、次から次へと涙が出てきたそうだ。

ひとつの文字を知ることで、いままで見てきた世界がガラっと姿を変えてしまう。そんな力を発揮することがある。それが言葉の力なのだと思う。学ぶことの多くの部分は、そうした言葉の力を身につけることのように思う。きっといまの生徒は、そのおばあさんより、何倍も、何十倍も知識がある。けれども、そのおばあさんほど、言葉の力を知っているわけではない。またそうしたことを伝えられていないように思う。
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