since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
いま、福島第一原子力発電所の事故の収束のめどが立たない状況の中で、さまざまな議論が行われている。反対の人の中にも、反原発と脱原発の人がいる。原子力発電は原則的に推進すべきで、だから安全を、という人もいる。ただ以前のようにほとんど無条件に「絶対安全だし賛成」という人は影を潜めている。
原子力の問題は実は私にとってはかなり大きなテーマだった。いまなされている議論について、私は一応、物理学を志した人間だけれども、みていると、到底ありえないような論も少なくない。
「不安にさせるのか、風評被害を生むのではないか」ということばと、「いや風評以前に事実でしょう」ということばがたたかわれる。
原子力発電を止めたら電気が足りなくなるじゃないか、という人がいて、そうではないという人がいる。
100mSvまでは安全だという人がいて、いや1mSvでも危険はゼロにはならないんだ、という人もいる。
内部被曝は科学的に立証されていないから外部被曝のほうが危険という意見もあれば、立証されていないが内部被曝のほうが危ないのではないかという意見もある。
原子力は地球温暖化の原因とされるCO2を出さないから、環境を考えると原子力が必要という人が入れば、原子力のほうが環境を破壊するという人もいる。
コストにしても正反対の見解がぶつかりあっている。
ただどの意見も、政府や東京電力が事実とデータを充分に提供していると思っている人は少ない。
ものごとを学ぶということは、テストの問題を解けるようになることではない。
自然科学にしても社会科学や人文学にしても、何事かを学ぶことは、そのままの自分の目では見えないもの、見えないこと、耳にすることができない何か、触れることができない何ものか。それを見つめ、聞きとどけ、そして触れること、その力を養うことだろう。
さまざまな情報、見解が錯綜するからこそ、自分の目で、耳で、感触でものごとにふれ、その奥に潜む何か確かめる力が必要だと思う。
それは見えないものを見ることかもしれないし、見えていたことの中に別の何かを見出すことかもしれない。
例えばニュートン。(私自身はケプラーがすごいなと思うのだけれども)
よく、りんごが落ちるのを見て万有引力の法則を見つけた、というような言い方をされることがある。ちょっと事実とは違うらしい。
しかしニュートンの凄さは、いや凄まじさといったほうがいいかもしれないが、それは「月などの天体の運動」といや目の前で起こっている「りんごが落ちる」という運動。この日常的な感覚では全く別のものにみえる現象を、同じひとつの現象、慣性の法則と作用・反作用の法則、そしてたった一つの方程式。わずかこれだけの法則に還元して捉えてしまったことにあるのだと思う。ポトンと落ちるりんごと地球の回りまわっているように見える月がおなじに見える。その凄まじさはちょっと想像できない。
そうしたニュートンのような視界は、誰かに与えられたものを、与えられたように見ているだけでは絶対に生み出されない。
社会科学でも人文学でも同じだ。
経済学・経済学史の専門家だった内田義彦氏は、社会科学における概念を「ウルトラアイ」と称した。つまり、その概念を身につけることで<モノ>=社会を見る。直接にモノをみるのではなく、言葉でものを見る。ウェーバーを読むのは、ウェーバーが何をいっているのかを知るためではなく、ウェーバーのように社会が見えるようになることだ。内田氏は概略そのように述べている。だからひとつの概念を獲得することは、それまで見えなかった一つの視界を得ることだ。そうしたことがとても大切になっていると思う。
マスメディアやインターネット、また最近、いろいろともてはやされているツィッターなどのソーシャルメディア。そうした中で、流れている情報量は桁違いに多くなった。けれども、それはすべての情報が流通していることを意味しているわけでもないようだ。当然、その流れている情報にも様々なものがある。
正しい情報の扱い方を求めたり、その開示を求める人達もいる。それはそれで間違っていないと思う。
けれども、どんなに目の前に情報があり、データがあっても、それを読む目が備わっていなければ、ただの記号にすぎない。
わたしには膨大な情報の流通が、逆にものごとを読み取る力を奪っているように見えることがある。
これからは君たちの時代だ。けれども、一つの時代が、自分たちの時代だと言えるようになるためには、ただ、その時代の中で生きているだけでは足りない。その時代の根っこにどのような力が働き、どこに向かおうとしているのか。それについてどのように自分は考え、どういう態度を取るのか。そうしたことがあって、「その時代」は初めて「自分(たち)の時代」になる。だれかがすべてを決めた時代は、そのとき生きている人達にとって自分たちの時代とはならないだろう。
君たちが、自分たちの目で、感覚で、流れている記号、言葉、データの向こう側の何かを掴み取らなくてはいけない。本当は、いま学んでいることがそうした力の土台を作ることなのだと思う。
原子力についてわたしの意見をここでは述べないが、けれども、ある意味ですべての人が、それは高校生の君たちも含めて、どうするのか考えることが求められている時代なのだと思う。福島の高校生たちは、いやもおうもなく考えなくてはならなくなっているのだし。それに実際、放射線や放射能は眼に見えないし、匂いもしない。全く知らないあいだに被曝しているんだから。
原子力の問題は実は私にとってはかなり大きなテーマだった。いまなされている議論について、私は一応、物理学を志した人間だけれども、みていると、到底ありえないような論も少なくない。
「不安にさせるのか、風評被害を生むのではないか」ということばと、「いや風評以前に事実でしょう」ということばがたたかわれる。
原子力発電を止めたら電気が足りなくなるじゃないか、という人がいて、そうではないという人がいる。
100mSvまでは安全だという人がいて、いや1mSvでも危険はゼロにはならないんだ、という人もいる。
内部被曝は科学的に立証されていないから外部被曝のほうが危険という意見もあれば、立証されていないが内部被曝のほうが危ないのではないかという意見もある。
原子力は地球温暖化の原因とされるCO2を出さないから、環境を考えると原子力が必要という人が入れば、原子力のほうが環境を破壊するという人もいる。
コストにしても正反対の見解がぶつかりあっている。
ただどの意見も、政府や東京電力が事実とデータを充分に提供していると思っている人は少ない。
ものごとを学ぶということは、テストの問題を解けるようになることではない。
自然科学にしても社会科学や人文学にしても、何事かを学ぶことは、そのままの自分の目では見えないもの、見えないこと、耳にすることができない何か、触れることができない何ものか。それを見つめ、聞きとどけ、そして触れること、その力を養うことだろう。
さまざまな情報、見解が錯綜するからこそ、自分の目で、耳で、感触でものごとにふれ、その奥に潜む何か確かめる力が必要だと思う。
それは見えないものを見ることかもしれないし、見えていたことの中に別の何かを見出すことかもしれない。
例えばニュートン。(私自身はケプラーがすごいなと思うのだけれども)
よく、りんごが落ちるのを見て万有引力の法則を見つけた、というような言い方をされることがある。ちょっと事実とは違うらしい。
しかしニュートンの凄さは、いや凄まじさといったほうがいいかもしれないが、それは「月などの天体の運動」といや目の前で起こっている「りんごが落ちる」という運動。この日常的な感覚では全く別のものにみえる現象を、同じひとつの現象、慣性の法則と作用・反作用の法則、そしてたった一つの方程式。わずかこれだけの法則に還元して捉えてしまったことにあるのだと思う。ポトンと落ちるりんごと地球の回りまわっているように見える月がおなじに見える。その凄まじさはちょっと想像できない。
そうしたニュートンのような視界は、誰かに与えられたものを、与えられたように見ているだけでは絶対に生み出されない。
社会科学でも人文学でも同じだ。
経済学・経済学史の専門家だった内田義彦氏は、社会科学における概念を「ウルトラアイ」と称した。つまり、その概念を身につけることで<モノ>=社会を見る。直接にモノをみるのではなく、言葉でものを見る。ウェーバーを読むのは、ウェーバーが何をいっているのかを知るためではなく、ウェーバーのように社会が見えるようになることだ。内田氏は概略そのように述べている。だからひとつの概念を獲得することは、それまで見えなかった一つの視界を得ることだ。そうしたことがとても大切になっていると思う。
マスメディアやインターネット、また最近、いろいろともてはやされているツィッターなどのソーシャルメディア。そうした中で、流れている情報量は桁違いに多くなった。けれども、それはすべての情報が流通していることを意味しているわけでもないようだ。当然、その流れている情報にも様々なものがある。
正しい情報の扱い方を求めたり、その開示を求める人達もいる。それはそれで間違っていないと思う。
けれども、どんなに目の前に情報があり、データがあっても、それを読む目が備わっていなければ、ただの記号にすぎない。
わたしには膨大な情報の流通が、逆にものごとを読み取る力を奪っているように見えることがある。
これからは君たちの時代だ。けれども、一つの時代が、自分たちの時代だと言えるようになるためには、ただ、その時代の中で生きているだけでは足りない。その時代の根っこにどのような力が働き、どこに向かおうとしているのか。それについてどのように自分は考え、どういう態度を取るのか。そうしたことがあって、「その時代」は初めて「自分(たち)の時代」になる。だれかがすべてを決めた時代は、そのとき生きている人達にとって自分たちの時代とはならないだろう。
君たちが、自分たちの目で、感覚で、流れている記号、言葉、データの向こう側の何かを掴み取らなくてはいけない。本当は、いま学んでいることがそうした力の土台を作ることなのだと思う。
原子力についてわたしの意見をここでは述べないが、けれども、ある意味ですべての人が、それは高校生の君たちも含めて、どうするのか考えることが求められている時代なのだと思う。福島の高校生たちは、いやもおうもなく考えなくてはならなくなっているのだし。それに実際、放射線や放射能は眼に見えないし、匂いもしない。全く知らないあいだに被曝しているんだから。
PR
COMMENT