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since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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 京都大学入試の現代文を読んでいる。
 2011年、長田弘。「生きるとは、そのようにして、日々のいとなみのうちにみずからの<生きるという手仕事>の意味を開いてゆくという、わたしの行為なのだ」。
 2010年、津島佑子。「子どものころの世界は、音とにおいと手触りとでできあがっているということなのだろうか。」「思えば、私は物語の声を求めつづけていた、ということになるのだろうか」。

 <生きるという手仕事>。そして「手触りと物語の声」。

 奥行きに満ちた言葉がひとつの世界を立ち上げる。そうした文章だ。

 傍線部の説明をするために、テクストの織りなす言葉の糸をたどってゆくという作業を無機質に遂行するような入試現代文の指導やそうした参考書・問題集に辟易とする。


 文章を読む。言葉をたどる。人間から人間への、しかもその少なくない場合、一方の人間がすでにこの世にいない中で繰り広げられる、何事かを受け取ろうとする行為であるはずだ。それはそこに投影する自己の姿を見出すことであるかもしれない。けれども、読むことの意味は、それが他者を媒介に、他者の言葉を媒介に行われるところにあるはずだ。
 私は、言葉の向こうに肉声を聞き取りたい。一つの声を聞き届けたい。聞かれることなく、取りこぼされる人間の何かがそこに残されることを恐れる。むろん、それは必ず残る。すべてを聞き尽くすことなどできることではない。けれども、やはり、その聞くことのできなかった声にさらに耳をそばだたせたい。
 学ぶということの意味の一端は、すくなくともそういう行為の中にあるのだと信じる。それはひとつの精神史を形づくることになるのだと思う。

 現代文の入試の中で損なわれていくことがある。あるいは、その指導の中で壊されてゆくことがある。読むことによって見えなくなることがあるように思えてならない。読むことによって聞こえなくなることがあるように思えてならない。そうした恐れを日々抱く。

 長田弘の「手仕事」に辿りつけるのか。津島佑子の「肉声と手触り」に触れることができるのか。その一端に、微かにでも触れる読解は、キレイに約束事を守った解答よりも遥かに意味があるはずなのだけれども。
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