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since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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[  11/29  送別会  ]
  昨日、送別会があった。講師のWとYが退職した。

現在の前身にあたる教室があった。それは1年で親会社の倒産で閉鎖を余儀なくされた。その時の第一期、第二期に入社した講師がこれでいなくなった。
倒産=教室閉鎖を一緒にこえてきた講師と教務がまだ4人、残っている。

けれども、一つの幕が下りたような気がする。


一週間後に入試を控えている生徒がいて、その指導を23:20くらいまでやっていた。そのため、送別会に出ることができなかった。申し訳ないことをした。
けれども、生徒がいるところが私のホームポジション。許してくれるだろうと思う。

そういえば、教室が閉鎖した時、あちらこちらの場所を借りて、浮遊するようにして指導を継続した時期があった。その時、私は、「生徒と講師さえいれば、指導はできる」と言っていたらしい。記憶にないけれども。
きっと私のいるべきところは、どこかの場所なのではなく、生徒と講師がいる、その空間なのだろう。

送別会に出られなかったけれども、ちょっとビールを飲みました。

お疲れ。ありがとう。

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  思わぬ契機から「サッカー」のことを「勉強」することになってしまった。勉強といってもちょっと本を読む程度です。サッカーを「する」わけではありません。してもいいけど、とりあえずこの暑さの中ではやりたくありません。

とりあえずいま、村松尚登氏の『スペイン人はなぜ小さいのにサッカーが強いのか』と、坂本圭氏の『美しいフットボールは生き残る』という2冊を読みつつあります。まぁ、このくらいで「勉強している」とはとても言えない。けれどもただ趣味で読んでいるわけでもありません。けっこう真剣に読んでいます。

ということで、私はいま、ちょっとだけ「スペイン・サッカー」に詳しくなりつつあります。ワールドカップは無関係ではありません。けれども「ワールドカップでスペインが優勝したから」というわけでもありません。だからイニエスタだったらたぶん、顔を見ればわかるけれども、シャビはわかりません。けれどもスペインサッカーがどういうバックグランドをもって、どういう組織と個人が作り上げられてきているのかということは少しだけ知るようになりました。

少し踏み込むと、ちょっと違う風景が見えてくることがあります。
ふたりの筆者はどうやら友人のようで、同じようなことを書いているけれども、ふたりとも日本のサッカーはどうやった強くなるのか、ということを真剣に考えています。それが真剣であればあるほど、その言葉はサッカーだけではなく、日本の教育、そのシステム、文化的風土、歴史、社会の仕組み、そうしたものから作られるメンタリティ… そうしたことに広がっていきます。これが例えば「名古屋グランパスはどうやったら強くなるのか」という設問であれば、きっとスポンサーのあり方、チームの運営と指導、サポーターのあり方などなどと限定された内容になるのでしょうが、「日本のサッカーは?」と問題をたてると、それが日本全体の課題にどこかでつながってくるようです。単純にサッカーの歴史が短いというようなことではなく、日本人がやっているスポーツだから、ということに起因する課題があるからです。
サッカーの本を読むことで思わぬ刺激を受けました。

勉強するというのはきっとこういうことなのだろうなと思います。筆者の方々もサッカーを通して様々なことを学び、私も、その視野から思わぬものをみることができる。そういう関連の中で人間の関わりはあるのだろうと思います。

興味がある人は一度読んでみたらよいと思います。

ただし、歴史や社会現状についての認識で、ちょっと間違っているなと思う点もあります。あるいは、ここで議論を止めてしまったらダメだろう、と思う点もあります。
それはきっとこれから様々な人びととの討議や検討を通じて深められていく論点になるのでしょう。いやもうそういうことは行われているのかもしれません。真剣にいろんなことを学ぶことは、思っているよりも大きな視野の広がりを、思わぬ視野の広がりをもたらしてくれるものです。
  ようやく石牟礼道子の『苦海浄土』を読み始めた。ずっと昔、一度は手に取り、読み切らなかった記憶がある。なぜ読み切らなかったのだろう? 「読むべき時期」ではなかったからなのだろうか。

本や音楽、映画などには私にとっての「時期」というものがあるような気がする。例えばギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスの作品を初めて見たのは『シテール島への船出』だった。見たときは良く分からなかった。けれどもなぜか数年たってもう一度見た。最後のシーンが強く印象に残った。そして今また、彼の作品をしっかり見たいと思う。
きっと初めて見たときの印象はあったのだろう。その時にそれを受け止めることが私にはできなかった。けれども何かが残され、それが生きつづけていて、数年後に蘇ってきたのだろうと思う。その時が見るべき時期だったのだと思う。

石牟礼道子が聞き取り、書き取る水俣の言葉には懐かしさがただよう。私は佐賀で生まれた。小学生のころはしばしば祖父母たちのいる場所に帰った。
同じではないのだろう。けれども『苦海浄土』の言葉は、私の中のどこかに響く。

(まだつづきがあります。「つづきはこちら」へ)
  読むことをめぐって文章を書いてきた。それにしてもこの内田義彦の『読書と社会科学』をめぐる文章はいつおわるのだろうか。ある程度のイメージはあったが、全体にプロットなどを考えずに書き出したためとんでもないことになってきている。はたしてゴールはあるのだろうか。あるとしてそこに辿り着けるのだろうか。非常に不安だ。しかも相対的に別の内容も混じりそうなので、いっそう終わりが見えない。

さて、その別の話題。ちょっと社会学の話。
(以下、 つづきはこちら へ)

  前回、内田義彦の「読むということ」について、①情報として読む、②古典として読む、という二つの読み方がある。そして古典として読むということは、情報を受け取るだけではなく、受け取る「目そのもの」を変えてしまうような「読み」であると述べた。同じものを見ている、読んでいるにもかかわらず、別の内容を受け取る。それは「受け取る目」がかわるということだった。
ここから逆に内田は「古典とは読み手自身の成長とともに、読め方が変わってくるもの」であり、丁寧に読むほどに受け取る内容がちがってくる、理解が違ってくるものだと定義している。
(以下は つづきはこちら へ)
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