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since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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  読むことをめぐって文章を書いてきた。それにしてもこの内田義彦の『読書と社会科学』をめぐる文章はいつおわるのだろうか。ある程度のイメージはあったが、全体にプロットなどを考えずに書き出したためとんでもないことになってきている。はたしてゴールはあるのだろうか。あるとしてそこに辿り着けるのだろうか。非常に不安だ。しかも相対的に別の内容も混じりそうなので、いっそう終わりが見えない。

さて、その別の話題。ちょっと社会学の話。
(以下、 つづきはこちら へ)


受験が終わった生徒がそのまま通い続けることがある。今年は推薦で歯学部に合格した生徒が大学にむけて数学や英語、理科などを勉強し続けた。社会学部に合格した生徒も、合格が決まってから何度か個別を行った。こちらは私が見田宗介の『社会学入門』を使って、できるだけ一緒に読むように進めてきた(といってもどうしてもレクチャーのようになってしまったけれども)。

けれどもそれは私にとっても意味の大きなものだった。
見田宗介『社会学入門』(岩波新書)第2章 <魔のない世界>―「近代社会」の比較社会学。この本は他にも読んでいる生徒がいる。だから私も2回は通読し、部分的には数度読み返している。

構成はこうなっている。
冒頭、「色彩にも近代の解放があった。」と見田は書き出し、柳田國男の『明治大正史世相編』について述べている。それは「『近代社会』の形成の中で、日本人の生活とその感覚がどのように変化したかを、豊富な事例と深い洞察力をもって記した名著です」(p50)と述べている。

§1 花と異世界。「世界のあり方」の比較社会学。
§2 色彩の感覚の近代日本史
§3 <魔のない世界>
§4 ツァウベルのゆくえ

§1では、ホピ族についてのウォーフとサピアの研究による潜在態と顕在態という世界の2重構造にエリアーデの「聖なるもの」=ヒエロファニーという概念を重ねあわせている。それを下敷きにしながら柳田國男の色彩についての議論を捉えている。そこにおいて見田は赤や白などの色彩についての近代以前の日本人の感覚の鋭さが、色彩についての禁忌と一体で存在していた。しかし近代において色彩が禁忌から解放された裏側で、色彩が分散し、そしてそれへの感受性を失ってきたことを捉えている。
さらに§3では一転してWeberを取り上げ、ヨーロッパにおける近代の形成・確立をとらえるキーコンセプトとしての<entzauberung>の検討をしている。<entzauberung>=<魔的なものからの解放>。しかしそれが同時に人と人を結びつけるZauberの喪失でもあった。その二重性においてWeberは近代を捉えていたのだと論じた。
そして見田は見えないものにこそ、数量化できないものにこそ大切なものがあるのだと述べている。

私はこの議論をWeberの理論的枠組みの内側に柳田國男の議論を捉えることで柳田の論を近代批判として明確にさせようとしているのだと考えてきた。つまり日本限定の柳田の、その限定性をWeberを下敷きにすることで、近代把握の方にスライドさせるような読み方をしてきた。
けれども2章の最後の一文をよく見ると必ずしもそうした論理構成をもっていない。むしろ柳田國男を主語に、近代を超えて出ていこうとする角度から2章を総括している。少なくともWeberと柳田は対等におかれている。「正確に呼応し」と書かれている。
もしこれが書かれているとおりに<柳田國男×Weber>で、その双方が対等であるならば、どうなのか。その文章を個別の前の日にじっと見ていたときハッと気がついた。
少なくともこの2章に書かれている限り、Weberに<聖なるもの>とそうでないもの、潜在態と顕在態という対比はない。であれば、柳田の議論を介することでWeberの議論も<聖なるものの喪失としての近代>という視野を獲得することができるのではないか。つまりWeberを介することで柳田は<近代>批判の一般的な枠どりの中に位置づけられ、同時にそうすることで、Weberは目に見えないもの=聖なるもの=潜在態の喪失という近代において失われた巨大なものを捉える内容を与えられることになる。そう思ったとき、初めて柳田の紹介の冒頭部分にエリアーデがおかれている意味が分かった。

上手く言いたいことが伝えられていないだろうな、と思いながら書いているけれども、この2章の像の転換は私にとってかなり大きな発見だった。2章はたぶん、4,5回読んでいたと思うけれども、その大きな論理的な枠組み、見田が2章で捉えていたイメージの半分しか読めていなかったことがはっきりと分かった。
見田は2章の冒頭に一茶の次の句をおいている。

手向くるやむしりたがりし赤い花

この句は難しくはないが、私たちには分からないという。
一茶の時代、葉と茎しかないところから忽然と現れる花の赤。目に見えない世界から、目に見える世界に弾けるように現れるその花の赤を通して、彼(彼ら)は目に見えている<表の世界>の背後に潜む<裏側の世界>、色彩が溢れる<聖なる世界>を感じとっていた。だから子どもがどんなにその赤い花を手折りたがっても、禁じるしかなかった。
しかし一茶が愛したその子が亡くなる。
そして亡き子ども語りかけながら、「ほら、お前がほしがった赤い花だよ」とやっと手向けてやれることができた。そうした句だという。一茶が見ていた世界と、私たちが見ている世界が大きく隔たっている。世界が違うのではない。世界の感じ取り方が違う。そして私たちは世界を感じとるある種の感覚を失ってきた。
Weberが視野の大きな広がりを、柳田國男を介することで、さらに世界の裏側にまで押し広げる。そうした視界を見田は提示していたのだと思う。そうして柳田はWeberと「正確に呼応しあって、(近代において)われわれの獲得したものの巨大さと、われわれの喪失したものの巨大の双方をみはるかす空間の方へ、ぼくたちの思考を挑発して止まない」のだろう。

近代をどう捉えるのか。そのことにかかわっての、かなり大切な視座の転換をさせてもらったような気がする。
深謝。


※柳田國男は法務省の高官から転身し民俗学の出発点を切り開いた。彼のあとには多くの研究者がつづき、巨大な流れを作り出している。(民俗学と民族学は別物です)

※Weber 通常、ウェーバーと言われるが、ドイツ語の発音ではヴェーバーとなる。そこでアルファベットのまま表記した。彼のものは3冊くらいは読んだけれども、主著の一つ、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は学生のころ挫折した苦い記憶がある。いずれどこかで再挑戦したい。
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