since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
前回、内田義彦の「読むということ」について、①情報として読む、②古典として読む、という二つの読み方がある。そして古典として読むということは、情報を受け取るだけではなく、受け取る「目そのもの」を変えてしまうような「読み」であると述べた。同じものを見ている、読んでいるにもかかわらず、別の内容を受け取る。それは「受け取る目」がかわるということだった。
ここから逆に内田は「古典とは読み手自身の成長とともに、読め方が変わってくるもの」であり、丁寧に読むほどに受け取る内容がちがってくる、理解が違ってくるものだと定義している。
(以下は つづきはこちら へ)
ここから逆に内田は「古典とは読み手自身の成長とともに、読め方が変わってくるもの」であり、丁寧に読むほどに受け取る内容がちがってくる、理解が違ってくるものだと定義している。
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この内田の『読書と社会科学』全体は、最終的に「目」を作るということはどういうことなのか、ということを軸に、学問のあり方、社会科学のあり方について述べている。
しかし、ここで「ていねいに読むほどに理解が違ってくる、個性的な理解になってくる」という趣旨のことが述べられているが、これはどういうことなのだろうか。「正確に読めば、同じ内容的な理解に到達するのではないのか」という疑問が当然に湧くだろうと思う。むしろその疑問が湧かなかったら、それこそ「問題」なのかもしれない。
受験生と現代文の読解をしている時、必ずこうした問題とぶつかる。「丁寧に読むほどに理解が違ってくるのであれば、現代文には正解などないことになるではないか」という声が聞こえてくる。
このことは整理しておくべきことのように思う。それは「読む」という行為の構造にも関わっているし、学校なども含めて、この整理がキチンと行われているとは到底思えないからでもある。少なくとも生徒にはそのような整理が行われている痕跡はない。端的に言って「読む」ということ、あるいは「読解力」ということがどういうことなのか、説明されたことはほとんどないと思う。「読むこと」がどういうことなのか、「読解力」がどういう力なのか、そのイメージすらない中で、いったいどうやってそれを身につけよ、というのだろうか、と思う。
結論から言えば、大学が入試で求めている教科としての現代文は、内田のいうところの「読み」、あるいはその力を、ほとんど、要求していない(ほとんど、です。ゼロではない)。私にはそれはある種の断念を含んでいるようにも思える。
内田が述べている「丁寧に、正確に読むことで理解が個性的になる、異なるようになる」ということがどういうことなのか。彼自身があげている例を引用しよう。
「森(有正)さんが、『女性手帳』というテレビ講演で、いや、他の文章だったかもしれません――バッハのオルガン演奏について、こういうことをいっていました。…[中略]…
楽譜に書いてあることを正確に読み、その通り正確にひく、これがおよそ演奏の基本で演奏家はその基本を守らなければならない。ところが、技術の不足や薬指の独立性がどうといった生理的な欠陥あるいはくせ、さらには気質――たとえば『待つ』という時間の『空白』に耐えきれないでついテンポが早まってくるといったことがあればそういう気質ですね――が、正確な演奏をさまたげる。そこで、それをどう克服し正してバッハその人の書いた楽譜に迫ってゆくかに演奏の妙味がある。と、こういって、そこに次のことをつけ加えています。シュヴァイツァにしろ、デュプレにしろ、それぞれ精密に楽譜を調べ、徹底して楽譜に忠実であった。そしてそれゆえに、彼らのバッハ演奏はそれぞれ個性的である。
楽譜に忠実でない演奏は、自己流で恣意的であっても、個性的などとはいえないということですね、いい変えると、昂奮しやすい性質でテンポがつい早まってくるなんてのは論外だ。同時に、さらにこの演奏論を、理解という当面私が問題としていることに即して考えると、こういうことになると思うんです。誰がひいても同じ演奏になるような、そういう最大公約数的な、底の浅い平板な理解では、とても正確な理解などとはいえない。
(Ⅰ「読むこと」と「聞くこと」と p28 アンダーラインは引用者)
楽譜に書いてあることを正確に読み、その通り正確にひく、これがおよそ演奏の基本で演奏家はその基本を守らなければならない。ところが、技術の不足や薬指の独立性がどうといった生理的な欠陥あるいはくせ、さらには気質――たとえば『待つ』という時間の『空白』に耐えきれないでついテンポが早まってくるといったことがあればそういう気質ですね――が、正確な演奏をさまたげる。そこで、それをどう克服し正してバッハその人の書いた楽譜に迫ってゆくかに演奏の妙味がある。と、こういって、そこに次のことをつけ加えています。シュヴァイツァにしろ、デュプレにしろ、それぞれ精密に楽譜を調べ、徹底して楽譜に忠実であった。そしてそれゆえに、彼らのバッハ演奏はそれぞれ個性的である。
楽譜に忠実でない演奏は、自己流で恣意的であっても、個性的などとはいえないということですね、いい変えると、昂奮しやすい性質でテンポがつい早まってくるなんてのは論外だ。同時に、さらにこの演奏論を、理解という当面私が問題としていることに即して考えると、こういうことになると思うんです。誰がひいても同じ演奏になるような、そういう最大公約数的な、底の浅い平板な理解では、とても正確な理解などとはいえない。
(Ⅰ「読むこと」と「聞くこと」と p28 アンダーラインは引用者)
※森有正 時々、このブログにも顔を出します。1911~1976年。65歳。まだ若すぎる死でした。
フランス哲学者で、1950年にパリに留学。そのまま東大助教授の職も辞し、パリで客死。森有正全集は古本でしか手に入らなくなってしまったけれども、ちくま学芸文庫から彼の核となる『森有正エッセー集成』①~⑤が出ています。西洋(特にフランス)と日本との経験の衝突とその結晶化を生きた人でした。
※シュヴァイツァ アフリカで医療に従事し、密林の聖者といわれたあのシュバイツァーです。彼は実はオルガン奏者であり、バッハの研究者でもありました。森有正の本を読んでいると医師・シュバイツァーは登場しないが、音楽者・シュバイツァーは時々、登場します。
※デュプレ イギリスの天才といわれたチェロ奏者、ジャクリーヌ・デュ・プレです。天から舞い降りるように地上に現れ、10代前半にバッハやベートーベンの最晩年の精神をそのままに表現できたといわれました。けれども、それは生身の少女には耐えられないことだったらしく、壊れ、そして41歳で死んでしまいます。エルガー作曲のチェロ協奏曲の第3楽章やパラディスのシシリアンヌは限りなく美しいです。
※シュヴァイツァ アフリカで医療に従事し、密林の聖者といわれたあのシュバイツァーです。彼は実はオルガン奏者であり、バッハの研究者でもありました。森有正の本を読んでいると医師・シュバイツァーは登場しないが、音楽者・シュバイツァーは時々、登場します。
※デュプレ イギリスの天才といわれたチェロ奏者、ジャクリーヌ・デュ・プレです。天から舞い降りるように地上に現れ、10代前半にバッハやベートーベンの最晩年の精神をそのままに表現できたといわれました。けれども、それは生身の少女には耐えられないことだったらしく、壊れ、そして41歳で死んでしまいます。エルガー作曲のチェロ協奏曲の第3楽章やパラディスのシシリアンヌは限りなく美しいです。
ここで内田は森有正をひきながら、正確であること、忠実であることが恣意的ではない意味での個性を生み出す、さらには個性的な理解にまで到達したときに、はじめてある種の正確な理解と言える、と述べている。楽譜を、書かれた言葉を、突き抜け、その向こう側にまで進み出るようなそういう読み方だろうと思う。
けれども、それは音楽家がそうであるように、厳しい訓練を要求する。その行き着くところではじめて滲み出るようにして生まれ出てくる個性だといえるだろう。
大学入試で大学が求めていることはこれとは違う。
音楽でいえば、譜読みとアナリーゼということをする。まず楽譜を追いながら、それを一通り音にしていく。そして分析する。調性、テンポ・リズム、音律、音形などなどをまずは正確に把握する。(アナリーゼはもっと先まで進むけれども)
入試で求められることは、こういうところまでだ。
何が、どう書かれているのか、文章の中にどういう論理の糸が張り巡らされているのか、そうしたことだ。筆者が、何について、どのような結論を、何を論拠にして主張しているのか。それにつきると言って良い。
そしてその際、結論=主張を明確にするために(不明確な主張は伝えることができない)、説明し(同一性)、比較する(対比)。またその結論=主張を説得的なものとするために、根拠を示す(因果)。基本的にそのような筋道、縦横にはられた糸を辿ることさえできれば、「現代文の問題」は解くことができる。
内田が述べていることは、そうしたいわば文章の解剖の先のことだ。そうやって文章を解剖し、そこから踏み込んでいく。その時、不分明なところ、矛盾しているように思えるところ、なぜこう述べているのだろうかと疑問に思うところなどが出てくる。そこからもう一段、底に潜んでいる何ものかに迫っていく。そのためには筆者との、あるいはテキストの言葉との激しい格闘が要求される。切り込み、切り合うような感覚すら求められる。
例えば少し前に岡真理の本のことを書いた。その後、同じ筆者の『記憶/物語』(岩波書店 思考のフロンティア)を読んだ。各ページに傍線が引かれ、波線が引かれ、傍点が打たれている。○、◎があり、×があり、!マークがある。欄外にかなり大量の書き込みがある。納得し敷衍したもの、参照すべき内容にかかわるもの、激しく異議を唱えたもの、そうしたコメントが到るところに残った。まぁたたかいの痕跡のようなものだ。そうやって読んだ。筆者もある意味で「闘いを求めている」と思った。かかっておいで、と言っているように読めた。異議を唱えるからには根拠を調べ上げたりもする。そうやって格闘して、やっと筆者へのある種の理解がはじまる。そこに人間が見えてくるような気がする。
大学が要求していることは、筆者が書いていることを骨身に染みて「分かった! そうかそういうことを言っていたのか」と思うまでのことではなく、「AだからBである」と述べているのだな、という把握までだ。つまり本当の意味での読解の一歩手前のところまでを要求していると言っていいと思う。本当の意味は10年後にハッと分かるかもしれない。あるいはそのまた10年後には「いや、そうかぁ、もっと本当はこうだったんだ」としみじみ感じるかもしれない。あるいは根本的な間違いがあると確信するかもしれない。けれどその前提は「AだからBだ」と書いていること自体の認識に間違いがあってはいけない。その正確さを大学は求めている。論文などを読む、読み解く、その前提的な力を見ようとしている。
けれども、それだけでは「読む」と言うに値しない気がする。だからどうしても個別指導やクラス授業では、そこから踏み込むことになる。生徒にもよるから、踏み込み方は千差万別だけれども。しかし、やはり筆者に迫ろうとする。実際に京都大学や以前に書いたが、2005年の神戸大学の問題などは、そうしたことをある程度求めてもいるように思える。「この文章と格闘してみせよ」と言っているように思う。あるいは慶應大学の小論文などもそうだ。生半可な精神ではたたきのめされるような出題をする。問題集でもZ会の「現代文のトレーニング 記述編」という問題集も、明らかにそうしたところに踏み込んでみようとしている。そうした文章を集めている。少し、そう思う。そういうところに踏み込んだとき、本当の「読解」の第一歩のように思う。
現代文は面白いよ、と元物理学科の私がいうのもおかしいかな。
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