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since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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  ようやく石牟礼道子の『苦海浄土』を読み始めた。ずっと昔、一度は手に取り、読み切らなかった記憶がある。なぜ読み切らなかったのだろう? 「読むべき時期」ではなかったからなのだろうか。

本や音楽、映画などには私にとっての「時期」というものがあるような気がする。例えばギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスの作品を初めて見たのは『シテール島への船出』だった。見たときは良く分からなかった。けれどもなぜか数年たってもう一度見た。最後のシーンが強く印象に残った。そして今また、彼の作品をしっかり見たいと思う。
きっと初めて見たときの印象はあったのだろう。その時にそれを受け止めることが私にはできなかった。けれども何かが残され、それが生きつづけていて、数年後に蘇ってきたのだろうと思う。その時が見るべき時期だったのだと思う。

石牟礼道子が聞き取り、書き取る水俣の言葉には懐かしさがただよう。私は佐賀で生まれた。小学生のころはしばしば祖父母たちのいる場所に帰った。
同じではないのだろう。けれども『苦海浄土』の言葉は、私の中のどこかに響く。

(まだつづきがあります。「つづきはこちら」へ)

  センター試験の演習で石牟礼道子の文書を読んだのは昨年だった。1996年の追試に出題された「言葉の秘境から」という文章だ。
本当に久しぶりに触れた懐かしさを感じさせる言葉だった。
眼前の水俣湾の向こうに広がる不知火海の光景をとおして、あるいは聞こえてくる村の人びとの言葉の響きをとおして、いまは目に見えない別の世界に属するような場所にすっと進み行くような文章だった。何か石牟礼道子という人そのものが、見えない「向こう側の世界」に半身、属しているような気配を感じさせる文章だった。

もう一度読みたい、いや今度こそ、ちゃんと読みたいと思った。
そして水俣病の本を読み始めた。

ここには医学部受験生が少なくない。その関係で読むようになったものは少なくない。例えば亡くなった東京医科歯科大の梶田昭氏の『医学の歴史』や藤田保健衛生大学の神野哲夫氏のいくつかの著作、近代医学の出発点となったアンブロワーズ・パレについての論文(これを読むために、近代科学の成立期全体について少し勉強しないといけなくなった)。産婦人科、小児科の医師不足など医療をめぐる現在の諸問題をあつかったもの。あるいは国境なき医師団の現場からのレポートや本。
いま小論文指導の一環として鷲田清一氏の『「聴く」ことの力』という本を読んでいるが、これは「臨床哲学試論」とも銘打たれたもの。やはり医学の現在について読み進めてきた文脈でのことでもある。

水俣病の文献を読み進めたのはそうした意味も重なり合っていた。

けれどもやはり出発点はしっかり石牟礼道子の文章だっただろうと思う。この人はいったい何ものなのか、何を見ていたのか、何が見えているのか。その視界を捉えようと思ったとき、水俣は避けて通ることができない。彼女は水俣とともに生きている人だから。
熊本大学神経精神科の原田正純氏の『水俣病』(岩波新書)、『水俣への回帰』、『水俣学講義』(以上日本評論社)、政治学者の栗原彬編集の『証言・水俣病』(岩波新書)など。
限定販売のようだが集中的にDVDも出されている。土本典昭監督のもの。彼は水俣にこだわり続けて、30年以上も記録映像をとり続けてきた。その土本監督の『医学としての水俣病』(3部作)。
そして先日、原田正純氏の『宝子たち 胎児性水俣病に学んだ50年』(弦書房)を読んだ。水俣病の患者とひとくくりせず、固有名詞をもってそこに描かれていた。例えば第二部第二章のタイトルは「千鶴さん」。彼が出会った水俣病にかかった一人の女性の名前だ。(内容は直接読んでもらいたい。) 原田氏の本は何冊か読んだが、章のタイトルに固有名詞をつけているのは、この文章だけかもしれない。治すことのできない病に医師として直面し続けることを選択した彼の目を通して、そこに生きている人、生きていた人の姿がほんの少しだけれども遠くにチラッと見えたような気がした。

そしてやっと「『苦海浄土』を読んでも良いかな」と思えた。(実はあまり知られていないかもしれないけれども、『苦海浄土』は三部作になっている。しばらくとりつかれるようにして読まなければいけないだろうと覚悟している。)

印刷された文字を読むということは、ある意味でとても簡単なことだ。紙の上のインクが襲いかかってくることもなければ、痛みを感じることもない。急に視野狭窄に陥ることもなければ、歩けなくなるわけでもない。ナマの世界の中で生きていることに比べてどれほど容易なことだろうかと思う。インクはしょせんインクに過ぎない。それらを追いかける苦労は、水俣病の患者が1日を生きる、生き延びることの苦労にすら及ばないかもしれない。
だから印刷された文字を通して何かを掴もうと思うのであれば、どこかで強く覚悟し向き合わないといけないように思う。そのようにしてしか読むことができない、読み取ることができない何ものかが生きている世界にはたくさん存在する。


PS 『水俣病の科学』という本がある。チッソ水俣工場はそのアセトアルデヒドの生産工程で、触媒として水銀を使ってはいるが、有機水銀そのものを使用しているわけではない。その生産工程でどのようにして無機水銀が有機水銀(メチル水銀)になるのか、その汚染がどのようにして広がったのか、というようなことが書いてある(はず。まだ中身をチラッと見ただけ)。
心の底から「あぁ、もっと化学をキチンと勉強していれば良かった」と思った。私の受験当時の名大理学部は理科が1教科だったので、物理を志望していた私は高校化学をしっかりとはやらないまま終わってしまった。
この本を読もうと思ったら有機化学と理論化学と格闘しないといけないらしい。小見出しに「メチル水銀の発生速度」だとか「メチル水銀の蒸発速度」などがあり、「数式で議論する必要性」などということが書かれている。……たじろぎながら、でも、きっと読み上げようと思う。買ってしまったことだし。この本はきっと書店で手に取っていたら買わなかった。アマゾンのような通販の困った面でもあり、でも、きっとそれは良い面にもなる。と、思いたい。
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