since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
ソシュールの言語学を勉強しなおしている。もっともソシュールの『一般言語学講義』はソシュールが書いたものではなく、彼の思想とかなり隔たりがあることはすでに丸山圭三郎やゴデルの作業ではっきりしているので、私はもっぱら丸山圭三郎を通してソシュールを読んできた。
あらためてソシュールの思想の挑戦していた課題の困難さ、その射程距離の長さを思い知る。
<メモ>
1) 論理は、語の連辞関係・連合関係の対比における連辞関係の上に存在している。論理を論理として釣らぬことができない場合は、連辞関係が非常に弱く、連合関係に支配された語の選択になっているように思える。
2) 西林克彦の学習理論を踏まえるならば、学習は基本的にメタレベルの言語と思考によって成立することになるだろう。メタレベルの思考のためにはそのための言葉が必要になる。
3) 言語における否定性。あらゆる言語は対比的な、あるいは相互に否定的な関係におかれている。正確には、相互否定的な関係が言葉の基本であって、言葉があって、それが相互否定的な関係を取り結んでいるのではない。
概念を概念として把握するためには、必ず、◯◯ではない、というかたちで捉えられてなくてはならないということになるだろうか。
あらためてソシュールの思想の挑戦していた課題の困難さ、その射程距離の長さを思い知る。
<メモ>
1) 論理は、語の連辞関係・連合関係の対比における連辞関係の上に存在している。論理を論理として釣らぬことができない場合は、連辞関係が非常に弱く、連合関係に支配された語の選択になっているように思える。
2) 西林克彦の学習理論を踏まえるならば、学習は基本的にメタレベルの言語と思考によって成立することになるだろう。メタレベルの思考のためにはそのための言葉が必要になる。
3) 言語における否定性。あらゆる言語は対比的な、あるいは相互に否定的な関係におかれている。正確には、相互否定的な関係が言葉の基本であって、言葉があって、それが相互否定的な関係を取り結んでいるのではない。
概念を概念として把握するためには、必ず、◯◯ではない、というかたちで捉えられてなくてはならないということになるだろうか。
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