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since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。                        ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
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 かつてなく状況が厳しい。ちょっと言葉ではうまく表現できないくらいの厳しさだ。

 大至急、指導と学習の基本的なあり方の構築・再構築の文書を書き上げようと思う。これを描き上げたからといって課題が解決するわけではない。けれども、課題の明確化、なすべきことの対象化のための基準にはなるかもしれない。
 エスキース的に述べるならば、

(1) 広い意味での国語力、言語能力の課題
 抽象的な概念構成ができないこと
 言語についての扱いの粗雑さ
 センテンスのレベルでの解体 文章を忠実に読むことができなくなっている。

 総じて、鋭角的に言えば「言葉の解体」とでも言うべき状況に直面している。様々な学習理論、認知心理学、学習心理学などの本を読んできたが、がっちり噛みあうものがあるとはいえない。しょせん、机上の空論だと思う。生身の格闘はそれほど生やさしいものではない。


(2) 抽象的な概念構成ができないことと関わるが、知識の階層的な構造がつくられないこと。
 この点については、西林克彦氏の学習論が参考になる。本質と現象の間の媒介項になるべき知識が欠落し、本質的規定を現実的なものに適応する回路が断ち切られている。
 しかしこのことは西林氏が述べるように、その中間項を適切に埋めることで解決すrのか、といえば私は現場感覚で「しない」と思う。なぜなら、そのことは、ただ<中間項が欠落している=空白になっている>ことを意味するのではなく、G・バシュラールの言葉を借りるならば、認識論的障害が横たわっているからであり、それはこれまでの「学習」によってつくりだれ、積み上げられ、確固とした一つの構築物となっているからだ。だからいったんはその破砕に着手しなくてはならない。しかしその激しい痛みを伴う過程を、いったいどれだけの生徒がたどりきれるか、現時点で私にはわからない。しかし間違いなく、そこに着手するほかなく、また生徒がその道筋を歩き尽くせるのだと信じることからしかはじめることができないだろうと思う。

(3) 論理の解体
 (1)、(2)などとも重なるが、論理というものが座らない。ある私立進学校は最近、和田秀樹氏の本を推奨したりしているらしい。私も数冊は読んだ。そこから一定の論の変化があるかもしれないが、彼や彼のような学習観が作り出している現実は非常に深く大きな問題となっている。
 端的に「暗記」で全てを賄おうとするあり方だ。
 確かに記憶を広い意味でとるならば、論理なども記憶されている限りで活用されるものだろう。しかし今問題になっているのはそういうことではない。
 たとえば数学が端的だ。

 数学は、一定の公理や定義があり、そこから演繹的に体系が構築されてくる。そしてそこには一体の階層的な構造がある。それが暗記学習によって破壊されている。
 簡単にいえば、等式の扱い、特にその同値変形は、それ自身一つの課題ではあるが、一定のレベルであれば半ば無意識のうちに、あるいは自動機械のように処理が行われなくてはならない。3x=x+2であれば、別段考えることもなくX=1とならないといけない。x+y=3をみたら、もうひとつ式がないと解が定まらないな、と思わないといけない。そうしたことをここでは「論理」といっている。こうした「論理」はいわば「分析・判断・方針→立式」という飛躍をはらんだドラマを終結に向けて運んでいく自動機械のようなものだが、それが記憶によって媒介されている。目の前の式をみて、その式が許容する限りでの式変形(この許容する限りでの式変形というところに数学の論理が顔を出すのだが)を行うのではなく、どこからか「記憶」と「イメージの連鎖」によって次の式が接続される。だからそこには数学の持つ論理関係は予め存在しない。
 問題は、ここでそうしたことが一つの固定した形としてつくりあげられてしまってることだ。そうなると数学の問題を解いているのに、それが数学に似た別の何ものかになってしまう。こうした「学習」を数年積み上げてくるということは、数年かけてその生徒の内部の数学、数学的論理を破戒し続けてくるということになる。この結果は極めて深刻なものになる。

(4) 具体性の喪失 抽象性・概念性の形骸化
 (3)の系として出てくる事柄がこの「具体性の喪失」だ。同時に抽象的概念の形骸化だ。
 直接的には、「目の前に実在している対象」に内在している論理をつかみ出すのではなく、それに外在的にどこからか別のものをもってきて接続することによって生じる。目の前の対象は分析もされず、検討もされない。だからそのほんとうの姿は目に映っていてもそれとして認識されていない。
 このことは数学で起こるし、理科でも一般的に起こっている。あるいは英語や国語などでもそうだ。目の前にあるもの、そのものを分析せず、目の前にあるものをいわば検索タグとして記憶のどこからか連想したものが引き出されてくる。そのとき、生徒は目の前のものを見ながらではなく、視線が対象からはずれ、そして「こうですか?」と言い出す。
 それは記憶だ。目の前のものの論理的展開、論理的帰結ではない。また、だから正誤の判断が講師の顔色によってなされることになる。
 こうなったらそれは学習ではなくなってしまう。

(5) 問題を解くこと、理解すること。
 対象の持つ論理の階層構造と問題演習による構造の破壊。

(6) 言葉のリズムの喪失。
(7) 助詞、主節、主語-述語の欠落。
(8) 学問的な言葉=非日常的言語と日常言語の区別の希薄化。


以下は、各論的に
(1) 単語。「赤字だけ覚える」論。→日本語と英語の1対1対応化と意味のズレの発生。
(2) 現代文の分析能力
(3) 数学。問題のカテゴライズ。
(4) 学習内容の切り縮め。負荷の軽減への志向。
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