since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
慶応大学の入試問題から始まって、岡真理『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房 2008/12/19発行)を読み上げた。
パレスチナの紛争と難民問題、戦争と虐殺とその中での文学を正面から、愚直なまでに正面から扱っている。しかも「この状況の中でアラブ文学を研究している自分とその研究とは一体なんなんだ」という問いを発しながら、だ。あとがきに寄れば岡は8年間、その問いを自分に発し続けたという。
重い読後感だ。気楽に読める本ではない。
しかしそれは閉鎖的な重さではない。むしろその世界は暴力と殺戮と様々な人間的な悲惨に満ちあふれながらも、その現実を見つめながらも、なおかつ広々と開けたものを感じさせる。それは明らかに60年に及ぶパレスチナの難民の生活、イスラエルの抑圧と暴力の中でなお「私たちはやはり、命の味方なのよ、私たちパレスチナ人は」(「アーミナの縁結び」より重引 p33)という、パレスチナ人の存在に連なり、根ざしているからだろう。
本来、文学は特に小説はフィクションであり、フィクションであるところに意味がある。フィクションであると言うことは、現実には無である、無でしかない、と言うことでもあるかもしれない。現実においてこれほど無意味で無力なものはない。しかし、だからこそ文学は祈りなのだと岡は言う。
小説は、そのフィクション性によって巨大な暴力に充ち満ちた世界と拮抗する。現実の巨大さに対してたった「一人の人間」を対置する。現実に対して、どこにも存在することのできない夢想を、魂を対置する。それは現実の世界においてあり得ることのない一つの緊張した拮抗だ。例えばパウル・ツェランが「投壜通信」として詩を表現したように、かすかな、ある意味ではありえないような夢や希望に、その微かな糸にすべてを託して現実の重圧の中で呼吸し、生き続けるための文学だ。だからこそ「祈りとしての文学」と岡は書いているのだろう。
そしてこの「祈りとしての文学」はパレスチナに立脚することで、ある種の帰属すべき世界を確保している。あるいは「帰還すべき大地」を内包している。どこかでこの本は強く踏ん張り、立ち続けている姿を想起させる。その強さは私には「大地のもつ強さ」のように感じられる。そしてそれはパレスチナ人が60年に及ぶ難民生活の中でなおも「故郷を呼ぶ」と言い続けている、記憶すると言い続けている、その「故郷」につらなりながら、想像力のうちに捉えているからでもあるように思う。
岡はまっすぐにパレスチナに依拠する。岡の本は、献辞こそ掲げられていないが、明らかにパレスチナの凡ての人々に捧げられている。文学が祈りであるように、文学について書かれたこの本は祈りについての言説であり、岡の祈りそのものでもある。
引用したくなる部分はたくさんある。が、いま、それは禁欲しよう。
パレスチナの紛争と難民問題、戦争と虐殺とその中での文学を正面から、愚直なまでに正面から扱っている。しかも「この状況の中でアラブ文学を研究している自分とその研究とは一体なんなんだ」という問いを発しながら、だ。あとがきに寄れば岡は8年間、その問いを自分に発し続けたという。
重い読後感だ。気楽に読める本ではない。
しかしそれは閉鎖的な重さではない。むしろその世界は暴力と殺戮と様々な人間的な悲惨に満ちあふれながらも、その現実を見つめながらも、なおかつ広々と開けたものを感じさせる。それは明らかに60年に及ぶパレスチナの難民の生活、イスラエルの抑圧と暴力の中でなお「私たちはやはり、命の味方なのよ、私たちパレスチナ人は」(「アーミナの縁結び」より重引 p33)という、パレスチナ人の存在に連なり、根ざしているからだろう。
本来、文学は特に小説はフィクションであり、フィクションであるところに意味がある。フィクションであると言うことは、現実には無である、無でしかない、と言うことでもあるかもしれない。現実においてこれほど無意味で無力なものはない。しかし、だからこそ文学は祈りなのだと岡は言う。
小説は、そのフィクション性によって巨大な暴力に充ち満ちた世界と拮抗する。現実の巨大さに対してたった「一人の人間」を対置する。現実に対して、どこにも存在することのできない夢想を、魂を対置する。それは現実の世界においてあり得ることのない一つの緊張した拮抗だ。例えばパウル・ツェランが「投壜通信」として詩を表現したように、かすかな、ある意味ではありえないような夢や希望に、その微かな糸にすべてを託して現実の重圧の中で呼吸し、生き続けるための文学だ。だからこそ「祈りとしての文学」と岡は書いているのだろう。
そしてこの「祈りとしての文学」はパレスチナに立脚することで、ある種の帰属すべき世界を確保している。あるいは「帰還すべき大地」を内包している。どこかでこの本は強く踏ん張り、立ち続けている姿を想起させる。その強さは私には「大地のもつ強さ」のように感じられる。そしてそれはパレスチナ人が60年に及ぶ難民生活の中でなおも「故郷を呼ぶ」と言い続けている、記憶すると言い続けている、その「故郷」につらなりながら、想像力のうちに捉えているからでもあるように思う。
岡はまっすぐにパレスチナに依拠する。岡の本は、献辞こそ掲げられていないが、明らかにパレスチナの凡ての人々に捧げられている。文学が祈りであるように、文学について書かれたこの本は祈りについての言説であり、岡の祈りそのものでもある。
引用したくなる部分はたくさんある。が、いま、それは禁欲しよう。
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