since Aug.2009.......「声低く語れ(parla basso)」というのはミケランジェロの言葉です。そして林達夫の座右の銘でもありました。 ふだん私は教室でそれこそ「大きな声で」話をしている気がします。そうしないといけないこともあるだろうと思います。けれども、本当に伝えたいことはきっと「大きな声」では伝えられないのだという気がします。ということで、私の個人のページを作りました。
プルーストの「見出されし時」を続けて読む。物を読むということは透明を担うものでなければならない。透明になってくるまで、緩っくりと、倦むことなく、何度でもやりなおさなければならない……。感性と知識と表現との堅固な網が僕の内に形成される。その網の固い結び目(ゴルディアス王の結び目)は僕の内奥に在るのだ。《花開くような》自己形成。そこでは行動が記憶に優先する。成長に伴う苦痛が僕をつらぬくが、僕はそれを歓んで耐える。(「全集」14巻 p215)
こうした奥行きに到達することがいつかは出来るのだろうか。
森有正の日記をときどき読むにつけ、そうした思いにかられる。いつものことだが、彼の文章を読むのは自分を打ちのめそうとしている時なのではないかと思う。何かを学び取るとか、知るとか、あるいは「感動する」とか、そうしたことを求めて読むということからはるかに遠いところに私にとっての森有正の言葉は存在している。その深みに触れたいと思うということでもない。彼が考えていたということを知りたいということとも異なる。ただそのページを開いても、理解するということを拒絶するような硬質なものに遭遇することになる。
一時期、アンゲロプロスの映画を立て続けに見ていたことがあった。その感覚に近いかもしれない。簡単に、あるいは永遠に理解するということが出来ないかもしれないと思わせるものがそこに在る。そう思った時、モノに触れるということはこういうことなのか、と感じたことがある。例えば山に登っている時、その風景に接して言葉を失ってしばらくその場に立ちつくす。その時、何かを解釈したり、その意味を考えたりするわけではない。その風景はそんなことを求めてはいない。あれこれと言葉をならべはじめたとき、その風景は私から遠ざかる。そうやって遠ざかりながら、言葉を通してしかみることができない風景もある。けれども遠ざかることで見えなくなることも当然、ある。
アンゲロプロスの映画や森の言葉にはそうしたことにつながるものがあるような気がする。
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